イリュストレ紙
1867年のパリ万国博覧会 (せんはっぴゃくろくじゅうななねんのパリばんこくはくらんかい, Exposition Universelle de Paris 1867, Expo 1867)は、1867年 4月1日 から10月31日 までフランス の首都パリ で開催された国際博覧会 である。42か国が参加し、会期中1500万人が来場した。
このパリ万博は、日本が初めて参加した万国博覧会として有名である。また、ここで発表された水族館と電気にまつわる出展作品から、ジュール・ヴェルヌ が『海底二万里 』の着想を得たことでも知られる[ 1] 。
会場
パリで開催された国際博覧会では2回目となる。1864年のナポレオン3世 の勅令 に基づいて計画され、パリ市内に119エーカー(48ヘクタール)、ビヤンクールに52エーカー(21ヘクタール)の土地が用意された。この土地はシャン・ド・マルス公園 となって、これ以降のパリ万国博覧会の会場となり、1889年のパリ万国博覧会 からエッフェル塔 の建設が開始される。メインパビリオン は長さ1608フィート(490 m)、幅1247フィート(380 m)の端が丸まった長方形の形をしており、その中央に長さ545フィート(166m)、幅184フィート(56m)のドームがあり、庭園が併設されている。
会場の上空からの眺め
全体の鳥観図
ほぼ真上から見た鳥瞰図
パビリオン
主会場とそれを取り囲む各国パビリオンなど
日本・中国合同パビリオン
スウェーデンのソルナ 市に復元移築されたスウェーデン・ノルウェー合同パビリオン
来賓
日本の参加
日本からは、江戸幕府 (日本大君 政府)に加え、薩摩藩 (薩摩 琉球国 太守政府)、佐賀藩 (肥前 大守政府)[ 3] がそれぞれ別個に出展し[ 4] 、使節団を派遣した。幕府は日本で統一した出品を画策したが断念し[ 5] 、独自に使節団や勲章まで作った薩摩藩に抗議したが聞き入れられず、幕末 の政争が如実に現れた万博となった。
江戸幕府
江戸幕府は、開成所 の高橋由一 ・宮本三平 らの油彩、北斎・国貞・芳幾・芳年らの浮世絵 、銀象牙細工の小道具、青銅器・磁器、水晶細工などを出品した[ 6] [ 7] [ 8] ほか、
江戸・浅草の商人(清水卯三郎 [ 9] )が数寄屋造り の茶屋 をしつらえた。3人の柳橋 の芸者 (おすみ、おかね、おさと)が独楽 を回して遊んだり、煙管 をふかしたりするだけの仕草が、物珍しさから、幕府や西南雄藩による公式展示以上の人気になったという[ 10] 。また、薩摩藩が独自の勲章 を作ったことに影響を受け、幕府もフランスで勲章外交を行うために独自の勲章(葵勲章 )の制作を開始したが、間もなく幕府は倒れ幻となった[要出典 ] 。
フランスへの親善使節として、将軍徳川慶喜 の弟で御三卿 ・清水家 当主の徳川昭武 [ 11] (民部大輔、当時15歳)を使節団長(名代)に、向山一履 ・栗本鋤雲 両外国奉行や保科正敬 (保科俊太郎)歩兵頭並、昭武守役の山高石見守 や昭武が清水家相続前から近侍 の攘夷 派からなる水戸藩 藩士、家老の海老名季昌 や横山常守 ら会津藩 藩士からなる総勢25名に派遣を命じた。使節団は親善のほか、昭武や青年らの留学が目的であり、留学生は追加を含めて帰国時には32名を数えた[ 12] 。使節団の訪仏は、幕府内に親仏派を作りたいフランス公使レオン・ロッシュ が熱心に幕府へ働きかけて決定され、ロッシュの部下の宣教師メルメ・カション が担当しレオン・デュリー 在長崎フランス領事が同行した。一方で、帰省のため同船した英国公使館の通訳・案内係アレクサンダー・フォン・シーボルト は、イギリス政府の意向をもって親仏派崩しを画策した[ 12] 。
幕府派遣の使節団一行は、1867年2月15日フランス帝国郵船 アルへー号で横浜 を発ち、同年4月3日にマルセイユ 到着[ 13] 。使節団は滞仏中に万博へ出席したほか、フランス皇帝ナポレオン3世 に謁見。観劇や競馬観戦、病院視察などを行い、昭武らは数名は同年9月4日より、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスを訪問して国王らに謁見した。昭武や幕府派遣留学生は数年の留学を予定していたが、翌1868年1月に大政奉還 の報に接したため、使節団は10月19日に離仏、12月16日横浜に帰国した[ 13] 。
この訪仏での見聞の記録を、栗本鋤雲 は『暁窓追録』[ 14] に、渋沢栄一 と杉浦譲 は『航西日記』[ 15] と題して、帰国後に出版した。
往路での徳川昭武付添役の面々
[ 16]
薩摩藩
薩摩藩は、二度の訪日経験があり薩摩藩士のフランス留学を世話していたシャルル・ド・モンブラン 伯爵の仲裁で、幕府と別個に展示館を設けた。展示館では、琉球の産物や薩摩焼 、漆器 、扇子 、煙草 など100種類以上の産物を約400箱出品された[ 5] ほか、コンプラ瓶 に詰めた状態で日本から運ばれた焼酎 も出品された[要出典 ] 。さらに、モンブラン伯爵の発案で日本初の勲章「薩摩琉球国勲章 」を作成し、ナポレオン3世などフランスの高官に授与するなど、薩摩藩は幕府と別の独立国 のように振舞った[ 5] 。
さらに、家老の岩下方平 (岩下佐治右衛門)が全権大使 (使節団長兼博覧会御用)として派遣され[ 5] 、関連する史料が現存する[ 17] 。
佐賀藩
佐賀藩は、西洋文明の吸収と特産品の売込み・営業を目的に参加した。展示館では陶磁器(伊万里焼 ・唐津焼 など)や白蝋 、和紙 、茶 など領内の特産品を多数出品し、会場で購入された陶磁器はセーブル にある国立陶芸美術館 (フランス語版 ) に収蔵された[ 3] 。
さらに、佐野常民 を団長に[ 18] 、藤山種廣 ら5人の使節団を派遣したほか、イギリス滞在中の石丸安世 もパリで使節団に合流した。万博会場で佐野は赤十字社 の活動を知り、1877年 (明治10年)の西南戦争 で博愛社(後の日本赤十字社 )を創設するきっかけになった[ 3] ほか、1873年 のウィーン万国博覧会 にも派遣され「博覧会男」の異名を得ることになった。また、佐野は蒸気船 購入交渉の特命を受けており、オランダでスループ 「日進 」の購入契約を締結した後、1868年に帰国した。
出品カタログ が佐賀県立博物館 に展示されているほか、国立陶芸美術館の収蔵品や使節団の作成資料などの未公開資料が万博から150年となる2017年 (平成30年)に佐賀県立佐賀城本丸歴史館で展示された[ 3] 。
各国の展示の様子
展観する人々
スタインウェイ 製のピアノに熱狂し、ピアニストになりたがる人々[ 21]
ユージン・ファルコの振り子時計
会期中の週間入場パス
脚注・出典
関連項目
外部リンク