ドレスナー銀行(ドイツ語: Dresdner Bank AG)はかつて存在したドイツの銀行。ドイツ・クレディタンシュタルト、アングロ・ドイチェ・バンク他数行の支援により設立された。JPモルガンのコルレスバンクとしてAEGをファイナンスした。20世紀末は投資銀行も兼ねる大手ユニバーサルバンクであった。ドイツ銀行、コメルツ銀行と並びドイツ三大銀行と呼ばれていたが、ナチス・ドイツに国有化されるまで事実上のアメリカ資本であった。2001年にバークレイズと関係の深いアリアンツが買収した。世界金融危機 (2007年-2010年)渦中の2008年にコメルツ銀行に再び譲渡され、翌2009年ブランドとしても消滅した。
世界恐慌のあおりでアメリカからの投資が一斉に引き上げられたヴァイマル共和政の産業は打撃を受けた。1931年7月にはドイツ第2位の大銀行ダナート銀行(Danat-Bank, Darmstädter und Nationalbank, 日本語での詳細)が支払い停止に陥り、ドイツ金融界全体の信用が地に墜ちる金融危機が発生し、その結果無数の企業が倒産した。ドレスナーはドイツ国政府の命令でダナートを吸収したが、その後ドレスナーも危機に陥り、株の66%をドイツ国が、25%をドイツ金割引銀行(Deutsche Golddiskontbank)が保有することで救済された[8][9]。ナチスと結びついたドレスナー銀行はその後急拡大した。1935年アーリア化をさきがけドレスデンのユダヤ系金融機関を吸収し、またナチスの行う諸事業(レンダーバンク傘下等)に融資を行った。ドレスナー銀行は1937年に再度私有化された。第二次世界大戦の開始直後には占領地や領土の東方への拡大で利益を得たものの、戦争によって支店建物の80%が失われる被害を受けた。戦後、ソ連占領地区の支店はすべて閉鎖され、米英仏占領地区の支店網も複数の小銀行へと解体された。ハイパーインフレーションで金融は混乱したが、ドイツマルク導入による通貨改革で業務は通常に戻った。
ドイツ再統一の意味
戦後、銀行の再統合でドレスナー銀行は復活した。西ドイツが復興するより早く、1950年代に戦争の火種くすぶるイスタンブールに代理店を設置した。そして1958年には西ドイツの金融機関で初めて銀行口座のコンピュータシステムに成功した。ベルリンの壁による営業制限が1963年に緩み、外国へ事業展開する条件が整った。1967年にルクセンブルク支店を設け、ドイツ銀行すらも出し抜いた。翌1968年ニューヨークへ証券子会社を出店した(now called ABD Securities Corporation)。ADB主任テオドール・シュミット・ショウバー(Theodor Schmidt-Scheuber)は翌1969年ボストン証券取引所の理事となり[10]、外国人として初めて合衆国内証券取引所の長となった。1974年、ドレスナーはクヴァント家が保有するダイムラー・ベンツ株10%をクウェート投資庁に売却する巧みな仲介をなし手数料を得た。1977年ドイツの秋に頭取ユルゲン・ポント(Jürgen Ponto)が射殺された。後継のハンス(Hans Friderichs)は、経産相時代にフリック一族(Flick family)から賄賂を受け取ったことが公となってレーラー(Wolfgang Röller)に交代した。レーラーのドレスナーはドイツ企業で初めて東京証券取引所に上場した。[11]
^Ralf Ahrens, Johannes Bähr, Jürgen Ponto: Bankier und Bürger, C.H.Beck, 2013, "Der Vizepräsident der GASC, Theodor Schmidt-Scheuber, wurde 1969 in den Vorstandder Bostoner Börsegewählt."
^International Directory of Company Histories, Vol. 57. St. James Press, 2004.
^Moody's Bond Survey, Vol.86, Moody's Investors Service, 1994, p.7949.