カール5世がプロテスタントであるザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒに勝利したミュールベルクの戦いの翌年、ハンガリー女王マリアはバンシュ宮殿(英語版)の大ホール装飾事業のためにティツィアーノに4点の神話画連作を発注した(1548年)。カルヴェテ・デ・エストレリャ(Calvete de Estrella)によると、完成した大ホールはティツィアーノの連作をはじめ、一貫して神々に挑戦した者たちの末路と終わりのない刑罰を描いた絵画やタペストリーで飾られていた。マリアの意図ははっきりしており、神々に挑戦した者たちの末路を描くことで、支配者(カール5世)に挑戦する人々(プロテスタント)の運命を暗に示そうとした[2][11]。
連作のうち『ティテュオス』、『シシュポス』、『タンタロス』の3作品は1549年に、『イクシオン』は遅れて1553年にバンシュ宮殿に送られた[3]。バンシュ宮殿では4つの神話画はメインホールの高い位置にある窓の間の壁に掛けられた。1549年8月22日、マリアはバンシュ宮殿でカール5世とその息子であるアストゥリアス公(後のフェリペ2世)を迎えた。大々的に催された歓迎のパーティでフェリペはバンシュ宮殿に感銘を受け、スペインにアランフェス王宮、エル・パルド宮殿(英語版)、ヴァルサイン王宮(英語版)を建設するきっかけとなった。しかしその直後にフランスとの紛争が再燃し、1554年に帝国軍がフォランブレ城(Château of Folembray)を破壊すると、フランス軍はその報復としてバンシュ宮殿とマリエモント城(Mariemont Castle)を略奪した。そのためマリアは絵画をブラバント公爵(Dukes of Brabant)の城に移し、さらに1556年にスペインのシガレス(英語版)に運んだ。その2年後の1558年にマリアは死去し、絵画はスペイン王室のコレクションに加わった[2][12]。その後『タンタロス』と『イクシオン』は1734年のアルカサルの火災で焼失したと推定されている。火災後はブエン・レティーロ宮殿(英語版)に移され、1747年に再建された新王宮に戻された[12]。その後、1828年までいくつかの部屋で飾られたのち、プラド美術館に所蔵された[2][12]。