スタンレー・ホー (漢字:何鴻燊 、英語 : Stanley Ho 、1921年 11月25日 - 2020年 5月26日 )は、香港 、マカオ の実業家。
香港およびマカオ等において多数の土地を所有すると同時に、娯楽、観光、船舶、不動産、航空、銀行など、多種にわたるビジネスを展開している。実に35年以上に亘ってマカオのギャンブル 産業界に君臨し続けており、同国におけるカジノ の経営権を長年独占していたというその様態をもって、時に「ギャンブルの帝王」、「マカオの盟主」、「カジノ 王」などと渾名されることもある。
人物
マカオのカジノ運営権を2002年 まで独占していた「マカオ旅行娯楽会社 (中国語版 、英語版 ) (澳門旅遊娛樂股份有限公司、Sociedade de Turismo e Diversões de Macau)」の経営者であり、マカオで最も富裕な人物であると同時に、アジア における上位富豪の一人に数えられ、雑誌フォーブス の2006年度世界長者番付 において、世界で59番目の長者に選ばれている。その収入はマカオのGDP のおよそ三分の一を構成するとされ、また、2003年度に納めた税額はマカオ政府の歳入の30%に達した。
ホーはマカオとともに中華人民共和国 の特別行政区となった香港に在住し、第9期・第10期・第11期全国政治協商会議 常務委員)[1] などの役職を務めている。香港市場への支配力もかなりの部分に及んで強力なものであるとされ、北朝鮮 、ベトナム 、フィリピン などでの投資も場合により活発に行っている。
来歴
生い立ち
曾祖父は広東省 出身の女性と結婚したユダヤ系オランダ人。その息子の一人がジャーディン・マセソン商会 総買弁 の何東 (ロバート・ホー・トン 卿)で、スタンレー・ホーの大伯父にあたる。スタンレー・ホーは、何東 の弟である何福 (中国語版 ) の孫。
何東一族 は英領香港時代における四大一族のひとつで、スタンレー・ホーは13人兄弟の9番目として生まれる。生家は富豪だったが、ホーが13歳のときに父が株価暴落などの影響で多くの資産を失う。その結果2人の兄が自殺した上、父は家族を見捨てて蒸発。母と2人の姉とともに残され、急速に生活が苦しくなった。この経験から金持ちになることを目指す。
香港の名門高等学校皇仁書院 に学んだ。在学前半における成績は芳しくなかったが、次第に向上、ついには奨学金を得て1939年 [2] に香港大学 へ進学。専攻に加えて英語 、日本語 、ポルトガル語 を学んだことで、これらを流暢に話すことができるようになった。ここで得たビジネスについての知識は後の実業家としての活動の上での大きな糧となったが、第二次世界大戦 の勃発により学業の中断を余儀なくされた[2] 。
実業家としての台頭
1941年 12月に行われた第二次世界大戦 中の日本軍による香港の占領 に伴う、一族の財産の喪失をきっかけとして単身で中立国 であるポルトガル の植民地 であるマカオへと移り、日本人経営の貿易会社で事務の仕事を始めた。母語、英語、日本語、ポルトガル語という4つの言語の能力を生かして働き、瞬く間に経営者の信頼を得るとともに、会社の重要な位置に就いた。21歳のときであった。
ある時、自身の担当する船が武装した集団による攻撃を受けた。武装集団は船を占拠。船はその時30万ドルを積んでいた。今の価値に換算すると数百万ドル相当の金である。悶着する中で、武装集団が金の方を見た瞬間、その者に向かって突進し、銃を取り上げ、集団から船の主導権を取り戻したのであった。この一件は経営者からの絶大な信頼を得るきっかけとなり、その後の海上貿易での大成功につながるものとなった。やがてその傑出した実績により100万ドルのボーナス を得る。
1943年 に、100万ドルを用いて香港における投資を始める。当時、香港の建設産業は急成長中の分野であった。ここに目をつけ、香港に灯油関連会社と建設会社を設立。これにより大きな利益を上げることとなった。
カジノ王へ
ホテル・リスボア(右)とグランド・リスボア(左)
Stanley Ho Building, 香港理工大学
1962年 には、盟友の霍英東 、妹スージー・ホー の夫テディ・イップ 、そして当時のギャンブル界の大物であったイップ・ホン の協力を背後に、マカオにおけるギャンブル権を獲得。観光客の誘致のため、ホテル・リスボア をはじめとするホテルの建設や港 の整備、香港とマカオとを結ぶ高速艇 (TurboJET )の整備などを行い、やがてその後30年のうちに、得たギャンブル権を独占的に用いつつ、さしたる変哲もないポルトガル の一植民地に過ぎなかったマカオを東洋 一のギャンブルの街に育て上げた。[2]
アジア通貨危機 の禍を受ける直前の1997年 には、自身の経営するマカオ旅行娯楽会社の売上高は20億ドルに達していた[2] 。1999年 にマカオが中国に返還され、スティーブ・ウィン のウィン・リゾーツ やシェルドン・アデルソン のラスベガス・サンズ などの参入で独占的ギャンブル権を喪失した後もグランド・リスボア などの主要なカジノのオーナーとして君臨した。
2020年 5月26日 、香港で死去[3] 。その後、中央政府はマカオにおけるカジノの取り締まり強化に動き、生前に政界との良好な関係を築いたその手腕が改めてクローズアップされることとなった[4] 。
家族
4人の妻と17人の子供を持つ[5] 。
第一夫人はマカオの弁護士貴族 の黎婉華で、1942年に結婚、一子と三娘をもうけた。1981年に息子何猷光がポルトガルにおける交通事故で死去。黎婉華は2004年に死去した。第二夫人は日中戦争 に参加した中国軍人の娘藍瓊珱で、1962年に結婚、一子と四娘をもうけた。現在はカナダ に在住。娘の一人であるパンジー・ホー (何超瓊)は、グループの持ち株会社である信徳集団有限公司 の総経理を務めるなど、最有力の後継者といわれている。またもう一人の娘であるジョシー・ホー (何超儀)は香港の人気歌手である。第三夫人は黎婉華の看護婦 陳婉珍で、1985年に出会い、一子と二娘をもうけた。現在は東華三院副総理。第四夫人は広州のダンサー梁安琪 で、1988年に出会い、三子と二娘をもうけた[6] [7] 。
関連書籍
脚注
関連項目
外部リンク