"ゴージャス" ジノ・ヘルナンデス ("Gorgeous" Gino Hernandez 、本名:Charles Eugene Wolfe Jr. 、1957年 8月14日 - 1986年 2月2日 [2] )は、アメリカ合衆国 のプロレスラー 。テキサス州 ハイランド・パーク出身。1972年 に日本で死去したプロレスラー、ルイス・ヘルナンデスは継父 にあたる[3] [4] 。
地元のテキサスを主戦場に、サンアントニオ とダラス の2大プロモーションを股にかけて活躍。プロレス界でも屈指のハンサム・ガイでありながら、持ち前の向こうっ気の強さを活かし、不良系のヒール として名を馳せた[5] 。イタリア 系とヒスパニック 系のハーフであり、ハンサム・ハーフ・ブリード (The Handsome Half-Breed )の異名を持つ。そのキャラクターは、弟弟子ショーン・マイケルズ のハートブレイク・キッドにも通底している[6] 。
来歴
亡父ルイス・ヘルナンデスの従兄弟でもあるメキシコ系アメリカ人 のスター、ホセ・ロザリオ のトレーニングを受け、テキサス のサンアントニオ 地区(後のSCW / サウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング)にて1975年 にデビュー。その後、ベビーフェイス の新鋭としてザ・シーク が牛耳るデトロイト 地区で修業を積み、1977年 1月8日にはブルドッグ・ドン・ケント を破りNWA USヘビー級王座を獲得した[7] 。同年はニューヨーク のマディソン・スクエア・ガーデン にも出場し、3月7日の定期戦においてジョニー・ロッズ から勝利を収めている[8] 。
1977年の下期よりテキサスに戻り、フリッツ・フォン・エリック が主宰するダラス のNWAビッグ・タイム・レスリング(後のWCCW / ワールド・クラス・チャンピオンシップ・レスリング)を主戦場とする。翌1978年 3月、全日本プロレス 『エキサイト・シリーズ』に初来日[9] 。同シリーズ後半戦にはリック・フレアー が特別参加しており、後のキャラクター形成に大きな影響を受けることとなる[10] 。
ダスティ・ローデス を流血に追い込むヘルナンデス(1978年)
以降は "ゴージャス・ジノ " を名乗り、フレアー・タイプの色悪系ヒール に転向。ダラス地区のフラッグシップ・タイトルだったNWAテキサス・ヘビー級王座を巡り、デビッド・フォン・エリック との抗争を展開する[11] 。師匠のロザリオとも遺恨試合を行い、メキシコ人ルード のエル・グラン・マルクスをパートナーに、エル・ハルコン やタイガー・コンウェイ・ジュニア と組んだロザリオとNWAアメリカン・タッグ王座を争った[12] 。タッグ戦線ではジミー・スヌーカ やブルーザー・ブロディ のパートナーにも起用され、NWAテキサス・タッグ王座を計3回獲得している[13] 。
ダラス地区には1980年 まで定着して、9月28日にはハーリー・レイス のNWA世界ヘビー級王座 にも挑戦[14] 。1981年 からは古巣サンアントニオのSCWに復帰。2月27日にはヒューストン でチャボ・ゲレロ からNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座 を奪取している[15] 。同年8月、全日本プロレスの『スーパー・アイドル・シリーズ』に再来日[16] [17] 。同シリーズではジプシー・ジョー の相棒となり、マスカラス兄弟(ミル・マスカラス &ドス・カラス )やリッキー・スティムボート らアイドル勢を相手にイキのいいラフファイト を披露、ヒールとしての持ち味を日本でも遺憾なく発揮して、次回の来日が期待された[18] 。
1982年 はジム・バーネット 主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング にもゲスト出場しており、ブラッド・アームストロング やトム・プリチャード に勝利[19] 。ロディ・パイパー のインタビュー・コーナーに出演した際には、女優ファラ・フォーセット のバースデイ・パーティーに招待されたことを鼻にかけ、彼女をモノにしたと嘯くなど色悪ぶりをアピール、ジョージア 地区のトップ・ベビーフェイスとして女性ファンの支持を集めていたトミー・リッチ を挑発した[20] 。
本拠地のSCWでは、団体のプロモーターであるジョー・ブランチャードの息子タリー・ブランチャード とのタッグチーム 、ダイナミック・デュオ (The Dynamic Duo )を結成[21] 。1981年から1983年 にかけて、ワフー・マクダニエル &テリー・ファンク 、ブロディ&ディック・スレーター 、ケン・ルーカス &リッキー・モートン 、ザ・グラップラーズ(レン・デントン &トニー・アンソニー )などのチームを相手に、SCW認定のタッグ・タイトルを再三獲得した[22] [23] 。
クリス・アダムス (左)とのダイナミック・デュオ(1985年)
1984年 、ブランチャードのジム・クロケット・プロモーションズ 移籍に伴い、チームを解散して再びダラスのWCCWに参戦。同年6月23日、手本としていたフレアーをトーナメントの決勝で下してテキサス・ヘビー級王座に返り咲く[11] 。1985年 からは "ジェントルマン" クリス・アダムス を新パートナーにダイナミック・デュオを再編。NWAアメリカン・タッグ王座を巡るフォン・エリック兄弟 (ケビン &ケリー・フォン・エリック )との抗争劇は、WCCWのドル箱カードとなった[24] 。
1986年 、当時WCCWと提携を結んでいた新日本プロレス への来日が決定。アダムスとのコンビで2月28日開幕のシリーズへの参加が発表されたが、来日を目前に控えた2月4日、ハイランド・パークの自宅で死亡しているところを発見される[24] 。検死の結果、死亡日は2月2日 [2] 、死因はコカイン の過剰摂取と判明した[25] 。28歳没。あまりにも突然の死のため自殺説や他殺説も囁かれたが、いずれも推測の域を出ていない[1] 。
得意技
獲得タイトル
リムジン からチャンピオンベルト を誇示するヘルナンデス (1981年)
ナショナル・レスリング・アライアンス
NWAデトロイト
NWA USヘビー級王座(デトロイト版):1回[7]
ワールド・クラス・チャンピオンシップ・レスリング
サウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング
脚注
外部リンク