アンリ2世は城の隣に、フィルベール・ド・ロームの設計による新しい城「新城 le Château Neuf 」を建設した。
エティエンヌ・デュ・ペラック監督のもと、新城は斜面の上に建設された[2]。
その斜面は、傾斜した大きなテラス3つを形作り、そこからより小さなサブのテラスへも抜けられた。
テラスの先は、線対称形になった階段と傾斜路で、その対称軸はセーヌ川の河岸までつながっていた。
このデザインは、バニャイアにあるヴィラ・ランテから多くのヒントを得ている[3][4]。
サン=ジェルマン=アン=レー城の庭は、フランスに導入されたイタリア式庭園の1つであり、フランス式庭園の基礎ともなった。
元来、城は防御のためにわざわざ難しい土地を選んで建設される[5]。
城との因果関係をもとに配置されるパルテッレとは異なり、新しい庭では、パルテッレ、砂利道、噴水と鉢、様式をふまえた植栽が正確な線対称のデザインに整えられ、その対称軸は、建物のファサードの対称軸にきちんと揃えられている。
このような様式は、1650年以降アンドレ・ル・ノートル作の庭でその絶頂期を迎えた[6]。
クロード・モレの『 Théâtre des plans et jardinage 』によれば[7]、パルテッレは1595年、アンリ4世のためにモレが設計した。
モレは、アネで経験を積み、王室庭師の権門の創始者となった。
モレがサン=ジェルマン=アン=レー城に設計したパルテッレの1つを、オリヴィエ・ド・セール画『 Le théâtre d'agriculture et mesnage des champs 』(1600年)に見ることができる。
またシャトー・ヌフと一連のすばらしいテラスの全体像を、1614年トマソ・フランチーニ作の彫版で見ることができる[8]。
^Sten Karling, in "The importance of André Mollet and his family for the development of the French formal garden," in The French Formal Garden, Elizabeth MacDougall and F. Hamilton Hazlehurst, editors, (Dumbarton Oaks, 1974), in making this point, notes Château d'Ancy-le-Franc , Château d'Anet, Château de Maune , Château de Charleval , Château de Verneuil and Saint-Germain-en-Laye.
^The book was not published until 1652, but it had long been in preparation (Karling 1974).
^Francini's engraving is illustrated by Karling, fig. 8.