1888年より1891年まで、日本美術を広く伝えるために複製図版と挿絵が掲載された『芸術の日本』(Le Japon artistique)という大判の美術月刊誌を40冊発行し、展覧会も企画した。毎号数多くの美しい浮世絵で彩られた『芸術の日本』は、フランス語、英語、ドイツ語の3か国語で書かれ、美術情報だけでなく、詩歌、演劇、産業美術といった各分野の識者による寄稿によって日本文化そのものへの理解に貢献した[6]。ビングが1890年に開催したエコール・デ・ボザールでの展覧会で浮世絵を見た美術愛好家のレイモン・ケクランは、その衝撃を「何という驚きだったろう。2時間にわたって私は、その鮮やかな色彩に熱狂していた。花魁、母親の姿、風景、役者、すべてに見とれた。展覧会で売られているカタログと参考書を鞄の中に詰めこみ、その夜私はむさぼるように読んだ」と記した[6]。また、同展覧会の組織委員の一人だったエドモン・ド・ゴンクールの友人ジェルベール夫人のもとで働いていたマドレーヌ・ヴィオネも浮世絵に衝撃を受け、浮世絵の収集を始めた。ヴィオネは後に、“バイアス・カット”という洋裁の画期的な裁断法を発見するが、このアイデアを組み立てていく際の土台になった一つが着物の直線的な裁断であった[7]。ビングはこのときの企画によって、レジオンドヌール勲章を受けている[2]。
1895年には、9区プロヴァンス通りに、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの内装により[3]、「アール・ヌーヴォーの店」(Maison de l' Art Nouveau)の名で画商店を開いた。日本美術だけでなく、ルネ・ラリックやティファニーなど、同時代の作家の工芸品も多数扱い、店はアール・ヌーヴォーの発源地として繁盛した[3]。こうして新しい美術の潮流を牽引し、ジャポニスムブームの一翼を担ったが[8]、初期の蒐集がそれほど美術的な価値がないものであったことを知って嫌気がさしたことなどから[2]、1904年に店を閉じて同9区サン=ジョルジュ通りに移転、経営を息子に譲って、翌年、パリ近郊ヴォークレッソンにて67歳で亡くなった。
"Les Origines del’ Art nouveau La Maison Bing", Gabriel P. Weisberg, EdwinBecker, Évelyne Possémé, Van Gogh Museum, Musée des Arts décoratifs, Fonds Mecator, Les Arts décoratifs. 2004.