1960年、アデナウアー内閣内相時代
Gerhard Schröder 1971
1972年総選挙でのシュレーダー(左端)。右隣はバルツェル党首、右端シュトラウスCSU党首
ゲアハルト・シュレーダー (Gerhard Schröder , 1910年 9月11日 - 1989年 12月31日 )は、ドイツ (西ドイツ )の政治家 。所属政党はドイツキリスト教民主同盟 (CDU)。3代の内閣で内務大臣 、外務大臣 、国防大臣 などの要職を歴任した。
経歴
ザールブリュッケン に生まれる。ギーセン のギムナジウム で学んだ後、大学に進学して法学 を学び、1932年 に第一次、1936年 に第二次国家司法試験 に合格した。1933年に法学博士 号を取得し、同年よりボン大学 法学部で助手を務める。同年、国家社会主義ドイツ労働者党 (ナチ党)に入党。突撃隊 にも加入したが、これは上級裁判所所長の慫慂に従ってのことだった。1934年、ベルリン のカイザー・ヴィルヘルム研究所に移り、外国・国際民法 の研究員となる。ここでは突撃隊の所属を更新しなかった。1936年に法務試補となるが、1939年から第二次世界大戦 に従軍。大戦中の1941年に結婚したが、夫人はニュルンベルク法 に定めるところのユダヤ人 との「第一級混血」であったため、ドイツ国防軍 の例外許可を受けての結婚だった。同年5月、告白教会 の参加者との出会いをきっかけにナチ党から離党した。大戦で捕虜となり、1945年に釈放された。
大戦後はイギリス軍 占領下のノルトライン=ヴェストファーレン州 内務省で公務員となるが、1947年から「北ドイツ鉄鋼監督社」で部長・弁護士として働いた。1945年にCDUの共同設立者の一員となる。1949年、ドイツ連邦議会 に初当選し、以後1980年まで議席を維持し続けた。1950年、議会の調査委員会で委員長を務める。1952年6月、連邦議会CDU議員団副団長。同年、34人の同僚議員と共に小選挙区制 導入法案を提出して連立の混乱を招いた。
1953年10月、コンラート・アデナウアー 内閣の内務大臣に就任。法律の専門家として「法による秩序維持」の確立に尽力し、ドイツ共産党 の禁止、連邦国境警備隊の組織改革などを実現した。1959年にはルートヴィヒ・エアハルト を大統領 候補に推薦したが、本人に断られている。1961年11月、ハインリヒ・フォン・ブレンターノ の後任として外務大臣に転じる。続くエアハルト内閣でも留任し、フランス との協調を重視するアデナウアーら「ゴーリスト 」と異なり、アメリカ合衆国 との協調を最重要視する「大西洋派」の外交政策を取った。当初アデナウアーはシュレーダーを後継者に考えていたようであるが、この外交指向の相違により外されたといわれる。
1966年12月、ドイツ社会民主党 (SPD) との大連立 が成立。シュレーダーはCDUの首相候補に立候補したが、議員団内での投票でクルト・ゲオルク・キージンガー に敗れた。SPD党首で副首相のヴィリー・ブラント が外相の地位を要求したため、シュレーダーは成立したキージンガー内閣では国防相に転じた。1967年、副党首に就任。1969年の大統領選挙にCDUから立候補したが、SPDの推すグスタフ・ハイネマン に敗れた。同年の総選挙敗北によるキージンガー内閣退陣に伴い、10月に国防相を離職した。
1969年から1980年まで、ドイツ連邦議会外交委員会委員長を務めた。1972年総選挙では党の重鎮としてフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス と共にライナー・バルツェル 党首を助けて選挙戦を戦ったが敗れた。翌年の党首交代に伴い副党首を退き、1980年に政界を引退した。ジュルト島 カンペンで死去し、翌年1月に国葬が行われた。
表彰
参考文献
Torsten Oppelland: Gerhard Schröder (1910–1989). Politik zwischen Staat, Partei und Konfession. Droste Verlag, Düsseldorf 2002