オーヴィル・ヒックマン・ブラウニング
オーヴィル・ヒックマン・ブラウニング (Orville Hickman Browning, 1806年 2月10日 - 1881年 8月10日 )は、アメリカ合衆国 の政治家 。アンドリュー・ジョンソン 政権で第9代アメリカ合衆国内務長官 を務めた。
生涯
1806年 2月10日 、ブラウニングはケンタッキー州 ハリソン郡 のシンシアナ において誕生した。ブラウニングは一時期オーガスタ大学 で学んだが、学位は取得しなかった。ブラウニングは法律を学び、1831年 にケンタッキー州で弁護士として認可を受けた。ブラウニングは同年にケンタッキー州を離れ、イリノイ州 クインシー で弁護士業を開業した。
1832年 、ブラウニングはイリノイ州志願兵部隊に参加し、ブラック・ホーク戦争 を戦った。ブラウニングはその後、政治に積極的に関与し、1836年 から1843年 までイリノイ州上院議員を務めた。1850年 と1852年 にはホイッグ党 から連邦下院議員に立候補したが、いずれも敗北した。1856年 5月 、ブラウニングはイリノイ州ブルーミントン で開催されたネブラスカ法案反対会議に、ホイッグ党代表として参加した。その後、奴隷制拡大反対を明確に打ち出した共和党 が結成されると、ブラウニングは共和党に合流した。ブラウニングは1860年 の共和党全国大会に、イリノイ州代表として参加した。
1861年 、連邦上院議員スティーヴン・ダグラス が死亡すると、ブラウニングは欠員充当のため後任の連邦上院議員に選任された。ブラウニングは1862年 に再選を目指したが、失敗した。ブラウニングは連邦上院において登録法案委員会 委員長を務めた。
1865年 にエイブラハム・リンカーン 大統領が暗殺され、後任の大統領にアンドリュー・ジョンソン が着任すると、ブラウニングはジョンソン大統領を強く支持した。ブラウニングは南部への寛容な政策を主張し、大統領に近しい相談役となった。1866年 8月 、内務長官 ジェイムズ・ハーラン が辞任を表明すると、ジョンソン大統領は後任の内務長官としてブラウニングを指名した。ブラウニングはその要請を受諾し、ジョンソン大統領の任期満了となる1869年 3月 まで内務長官を務めた。
ブラウニングは内務長官退任後、イリノイ州クインシーに帰郷し、弁護士業を再開した。そして1881年 8月10日 、ブラウニングはイリノイ州クインシーにおいて死去した。ブラウニングの遺体はクインシー市内のウッドランド墓地 に埋葬された。
家族
オーヴィル・ヒックマン・ブラウニングの父親はイングランドからの移民の子孫ミカイジャ・ブラウニング (Micaijah Browning, 1775-????)、母親は同じくイングランドからの移民の子孫サラ・ブラウン (Sarah Brown, 1781-1854) であった。
ブラウニングはアイルランドからの移民の子孫エリザ・ハックマン・コルドウェル (Eliza Hackman Caldwell, 1807-1883) と結婚した。2人の間には子供が生まれず、イライザ・スキナー (Eliza Skinner) を養子として迎え入れた。
参考文献
Dictionary of American Biography .
Baxter, Maurice G. (1957). Orville H. Browning, Lincoln's Friend and Critic . Bloomington: Indiana University Press
Pease, Theodore Calvin; and James G. Randall (eds.) (1925–1931). The Diary of Orville H. Browning, 1850–1881 (2 vols. ed.). Springfield, Ill.: Illinois State Historical Society
外部リンク