墓における彫像(ジョスラン城)
オリヴィエ(5世)・ド・クリッソン/クリソン (Olivier V de Clisson, 1336年 4月23日 - 1407年 4月23日)は、百年戦争 のフランス ・ブルターニュ のブルトン人 貴族・軍人。ブルターニュ貴族のオリヴィエ(4世)・ド・クリッソンとジャンヌ・ド・ブレビーユの息子。「屠殺者 」(le Boucher)の異名がある。フランス軍総司令官 (en )でもあった。
生涯
フランスの有力部将
1336年、ブルターニュのクリッソン城(クリソン )で生誕。
1343年 に父のクリッソン4世がイングランド にナント を売り渡そうとした疑惑の中でフランスに捕らえられ、パリ で処刑された後に母ジャンヌがイングランドで再婚したため、イングランドで育った。ブルターニュに帰還すると、ブルターニュ継承戦争 においてモンフォール家 のジャン4世 の側に立って戦った。モンフォール家がイングランドの支援を受けていたためである。1364年 のオーレの戦い においてクリッソンは敗北したものの、彼の指揮する部隊は捕虜を取らなかったために「屠殺者」の異名を得た。後にモンフォール家と仲違し、フランスの支援するパンティエーヴル家 についた[ 1] 。
1370年 、ジョスラン に領地を獲得し、8つの塔を内包する新形式のジョスラン城を建造した。同年にクリッソンはフランス王シャルル5世 に忠誠を誓い、後にフランス軍総司令官(元帥)となるベルトラン・デュ・ゲクラン の幕下に加わり、ポンヴァヤンの戦い でイングランド軍に勝利、1373年 のブレスト 攻城などの対イングランド戦役に参加した。翌1374年 の戦役ではランカスター公 ジョン・オブ・ゴーント 率いる1万3000人のイングランド軍をゲリラ戦で消耗させ、疫病の流行もあってイングランド軍全体の半分を葬る戦果を挙げた。ただし、1378年 にシャルル5世がブルターニュの併合を宣言した際、反発したブルターニュ貴族を王命でゲクラン共々討伐しなければならなくなり、王命と地元の板挟みに苦しんだ[ 2] 。
1380年 にゲクランが死亡するとフランス総司令官の地位を継承し、1392年 までその地位にあった。同年にシャルル5世も崩御、後を継いだ子のシャルル6世 に臣従、1382年 にはジェント の市民と協力してローゼベーケの戦い で敵を撃退すると、1387年 にはブレスト攻囲の指揮を執った。同年にはシャルル6世のイングランド侵攻作戦の指揮を執り、ポワトゥー とフランドル 等で指揮を執った。この作戦はクリッソンの艦隊を襲った海上暴風と名目上はフランス王側についていたはずのブルターニュ公ジャン4世の非協力的な態度により、不首尾に終わる[ 3] 。
2度にわたる暗殺未遂事件
クリッソンとジャン4世の仲違いが再燃すると、クリッソンはブルターニュ継承戦争時からのジャン4世の仇敵であるパンティエーヴル家側の戦死したシャルル・ド・ブロワ と妻ジャンヌ・ド・パンティエーヴル の嫡男ジャン1世・ド・シャティヨン (フランス語版 ) に娘のマルグリット を嫁がせた。そのため、ジャン4世はクリッソンを恐れるイングランドにそそのかされたこともあり、1387年6月にヴァンヌ に議会を開いてブルターニュの諸侯を集めると、そこにクリッソンを誘いこんで捕えてしまった。ジャン4世はクリッソンを暗殺 してしまおうとしたが、シャルル6世及びブルターニュの諸侯の介入があり、身代金と共に解放せざるを得なかった。しかしクリッソンも大きな代償を支払い、故郷クリッソン・ジョスラン・ランバル など10か所の城塞と10万フランの身代金をジャン4世へ渡す羽目になった[ 4] 。
ブルターニュに居場所がないためパリに帰還すると、シャルル6世にジャン4世の犯行を訴えて味方につけ、王家とパンティエーヴル家の威光を背景にブルターニュへの影響力を取り戻そうと図った。シャルル6世もイングランド派のジャン4世に不信感を抱いていたためクリッソンに肩入れしたが、和解を先決と考え、クリッソンとジャン4世の間を調停し両者を和解させた。クリッソンはパリに留まり総司令官として任務に専念した[ 5] 。
だが、ジャン4世はクリッソンの暗殺をもう1度計画、1392年6月13日 にクリッソンはジャン4世の策謀でかねてから不仲であるピエール・ド・クラン(後のフランス元帥 ジル・ド・レ の母方の曾祖父にあたる)に暗殺されかけた。クランはクリッソンの盟友でシャルル6世の叔父の1人・アンジュー 公 ルイ1世 の封臣であるが、ナポリ 遠征の留守時にアンジュー公の宝物を盗み、アンジュー公の死の遠因となった。クリッソンは狭い路地で襲われ刃に倒れたが死に至らず、クランの凶行が明るみに出ると、シャルル6世は彼を不敬罪で財産・領地を没収した。ジャン4世と手を組んでいたらしいクランはブルターニュに逃げ込んだが、ジャン4世からは冷淡に扱われた[ 6] 。
クリッソン暗殺未遂の主犯を庇護しているとして、ジャン4世に対してシャルル6世は懲罰のために軍を直卒して遠征したが、メーヌ 地方を通過中に突如人事不省に陥った。そのため遠征は中断されたが、シャルル6世の寵臣であったクリッソンに対して、王の叔父である政敵のベリー公 ジャン1世 とブルゴーニュ 公 フィリップ2世 (豪胆公)がここぞとばかりに非難中傷を吹き込んだために、クリッソンは失脚し総司令官職を取り上げられジョスラン城へ引きこもった。ブルターニュ諸侯はクリッソンの保護を申し出ていたため、しばらくジャン4世に抵抗を続けていたが、フランスの後ろ盾を無くしたクリッソンはやがて抵抗を諦めていった。一方、シャルル6世の狂気は百年戦争の後半の原因の一つとなる[ 7] 。
ブルターニュ公の後見人
1395年 にジャン4世とクリッソンは和解、1399年 にジャン4世が死亡すると、4人の息子と3人の娘の後見人にかつての仇敵であるクリッソンが指名されており、クリッソンはモンフォール家の子女達に対して忠実に任務を果たした。これに対し、クリッソンの娘マルグリットはジョスラン城を囲み後見を反故するように求めた。ジャン4世の遺児たちを暗殺するように求めたとの噂もたったが、クリッソンは頑として拒否、娘を殴ろうとしたため、マルグリットは逃げ出した際足を骨折、一生歩行困難となった[ 8] 。
1400年 には他に継承権を主張しそうな人物を抑えて、ジャン4世の同名の嫡男ジャンを新たなブルターニュ公ジャン5世 として即位させると、シャルル6世の三女ジャンヌ と結婚させ、次男のアルテュール をかつての敵だった豪胆公に後見させた。またブルターニュ施設官とブルターニュ議会に認められた。1402年 に彼らの母親ジャンヌ・ド・ナヴァール がイングランド王ヘンリー4世 と再婚することになったが、4人の息子がイングランドに連れ去られることがないよう手を打っている[ 9] 。
1407年、71歳でジョスラン城において死亡した。
子女
2度結婚しており、最初の妻でギー10世・ド・ラヴァルの娘カトリーヌ・ド・ラヴァルとの間に2女を儲けた。
2番目の妻でアラン7世・ド・ロアンの娘マルグリット・ド・ロアンとの間に子はいない。
脚注
^ ミシュレ、P255、P259、P380。
^ エチュヴェリー、P47 - P51、清水、P28、ミシュレ、P385 - P386、P415、P418。
^ エチュヴェリー、P51 - P53、カルメット、P75 - P77。
^ エチュヴェリー、P53、清水、P28 - P30
^ 清水、P30 - P32。
^ エチュヴェリー、P54、清水、P32 - P34、
^ エチュヴェリー、P54 - P56、清水、P35。
^ エチュヴェリー、P61、清水、P35 - P36。
^ エチュヴェリー、P62、清水、P36。
参考文献
関連項目