汁オッチャホイ
オッチャホイとはきしめんのような平麺[2][4]を、もやしと卵、小松菜、キャベツ[3]と一緒に料理した新潟県新発田市の特有の東南アジア風麺料理[5]である。油で炒め、にんにくと唐辛子を加えた[3]「皿オッチャホイ」と、唐辛子を使わず鶏や豚のうまみの効いたスープに入った[3]「汁オッチャホイ」がある[2][6]。
概要
シンガポール食堂
シンガポールで日本人向けホテルを経営していた創業者の父親の発案により誕生した料理である。創業者もシンガポールで生まれ、幼少期をシンガポールで過ごし、戦後、1946年(昭和21年)に新発田で食堂を起業した。そこで、父親がシンガポールの思い出の味であり大好物だった「オッチャホイ」をメニューに加えることを提案[6]し、創業者が父親の記憶を頼りに研究し、シンガポールの屋台料理の[4]味を再現したとされている[1][7]。昭和40年代半ば[2](1970年頃)にはテレビCMも流された[1]。現在は「皿オッチャホイ」と「汁オッチャホイ」があるが、最初は「汁オッチャホイ」は無かった[8]。
「オッチャホイ」という名前について
第二次世界大戦以前にシンガポールに住んでいた複数の日本人の言及により、かつてシンガポールに「オチャホイ」という料理があったらしいことは分かっている。
ニッポン放送やフジテレビで報道に携わりスタジオアルタ専務も務めた西岡香織の著作の中には、かつてシンガポールに在住していた日本人の回想として「オチャホイ」が登場している[9][10]。シンガポール日本人会が発行した書籍『戦前シンガポールの日本人社会』でも「オチャホイ」への言及があり、平たいミーのあんかけ麺と表現されている[11]:219。また、グレイビーソースがかかったものがあったという言及もある[12]:217。
金子光晴の自伝的旅行記である著作『西ひがし』のなかでは「オチャホイは、支那人の呼びうりの声で、平打うどんを、麻油(ごまあぶら)と唐辛子で炒めたもので、舌のちぎれるほどの辛さが、暑気払いに快かった。」と書かれている[13]:163-164[14]。また、「唐辛子といっしょにカレーも、胡椒も大量にいれてあるらしかった。」とも書かれている[13]:167-168[14]。
1977年(昭和52年)に初版が刊行された谷恒生の冒険小説『マラッカ海峡』にもオチャホイが登場する。シンガポールにおいて主人公のルポライターである相崎哲が中国人ボーイにメニューにないオチャホイを注文し、同行する大学生の速水麻紀がオチャホイが何か聞く場面がある。相崎は「労働者が常食にしている食べ物さ。スナックの焼きうどんと思えば当たらずとも遠からずだ」と答えており、”ひもかわのようなものを胡麻油と唐辛子で炒め、カレー粉をまぶしてある。”と表現されている。麻紀はオチャホイを一口食べるが、下唇がピリピリ痙攣するほど辛く、額に汗をにじませながらはあはあと息を吐いている[15]。
「オッチャホイ」はシンガポールの庶民的な料理であるとして広まっている[1][16]が、シンガポールでも隣国のマレーシアでも、現在は「オッチャホイ」という料理は存在せず[17]、「オッチャホイ」という名前がどこから生まれてきたのかは不明[2]になっている。シンガポール食堂の創業者は父が名付けたと聞いてはいたが由来を知らず、名前の由来を聞かれるたびに「オレだって分からね」と答えていた[2]。
現代のシンガポールで一般的に食べられているクイティアウを使った華僑料理「クイティオ」に見た目や味が似ていることから、元になった料理はクイティオではないかと考えられている[2]。名称については、河粉を使った広東料理の「干炒河(中国語版)」(ゴンチャウホウ)を聞き間違えて「オッチャホイ」となったのではないかという説がある[18]。また、シンガポールの目抜き通り「オーチャード通り」について、現地の人は「オッチャンド」と呼んでいることから、ここに語源があるのではと指摘する人もいる[2]。作家の南條竹則は、中華人民共和国・河南省の開封の屋台で「燴麺(中国語版)」(ホイミェン)という麺を食べたことがあり、これを炒めたものを「炒燴麺」(チャオホイミェン)ということから、「炒燴」(チャオホイ)が語源ではないかと指摘している[14]。
著名人の反応
脚注
注釈
- ^ 記事によれば「創業から5年ほどしてメニューに加えた」
- ^ 1997年の新聞記事において創業者が「メニューに加えて約四十年かな」と述べていることより。
出典