エーリヒ・ユリウス・エーベルハルト・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキー(Erich Julius Eberhard von dem Bach-Zelewski、1899年3月1日‐1972年3月8日)は、ドイツの軍人、政治家。親衛隊(SS)の将軍で最終階級は親衛隊大将、警察大将及び武装親衛隊大将(SS-Obergruppenführer und General der Waffen-SS und Polizei)。
経歴
ナチ党入党まで
ポンメルンのラウエンブルク(現在のポーランドのレンボルク)に生まれる。初名はエーリヒ・ユリウス・エーベルハルト・フォン・ツェレウスキー(Erich Julius Eberhard von Zelewski)だった。
父はユンカー(貴族)のオットー・ヤン・ユゼファット・フォン・ツェレウスキー(Otto Jan Józefat von Zelewski)。母はその妻エルジュビエタ・エヴェリナ(Elżbieta Ewelina)(旧姓シマンスカ(Szymańska))。ドイツ化したポーランド系貴族(スラヴ系西スラブ族)の一族であった。
1930年代後半に苗字にデム・バッハ(dem Bach)を加え、エーリヒ・ユリウス・エーベルハルト・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキー(Erich Julius Eberhard von dem Bach-Zelewski)となった。しかし1940年にはツェレウスキーの名前はポーランド人的であるとしてこれを除き、正式名をエーリヒ・ユリウス・エーベルハルト・フォン・デム・バッハ(Erich Julius Eberhard von dem Bach)とした[1]。しかし戦後亡くなった際の墓にはエーリヒ・ユリウス・エーベルハルト・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキー(Erich Julius Eberhard von dem Bach-Zelewski)の名前で眠っている[2]。
1943年7月にはパルチザン討伐部隊(Bandenkampfverbände)の指揮官となり、リガでの3万5000人の民間人虐殺、ベラルーシと東ポーランドでの2万人の民間人虐殺を行った。1944年初めにはコーヴェリ地方の前線で指揮をとっていたが、3月には治療のためドイツへ戻った。1944年8月5日より、ワルシャワ蜂起の鎮圧部隊の総指揮をとった[8]。彼の指揮の下、20万人の市民と人数未詳の捕虜が殺害されたとみられている。2か月に及ぶ鎮圧戦の末、ドイツ軍は街を再び支配下に置いた。この功績で1944年9月30日に騎士鉄十字章を受章している[9]。1945年1月26日にはSS第10軍団(X SS Armeekorps)の指揮官に任命されるが、この「書類上」の存在に過ぎない部隊は、2週間足らずのうちに解散された。
Władysław Bartoszewski (1961). Prawda o von dem Bachu (Truth on von dem Bach). Poznań: Wydawnictwo Zachodnie. pp. 103.
Marek Dzięcielski (2002). Pomorskie sylwetki (Pomeranian Biographies). Toruń: Wydawnictwo Adam Marszałek. pp. 221–233. ISBN 8373224912.
Patzwall, Klaus D. and Scherzer, Veit. Das Deutsche Kreuz 1941 - 1945 Geschichte und Inhaber Band II. Norderstedt, Germany: Verlag Klaus D. Patzwall, 2001. ISBN 3-931533-45-X.
Blood, Philip W. - Hitler's Bandit Hunters - The SS and the Nazi Occupation of Europe. Potomac Books Inc. 2006