1796年11月15日、グロはナポレオンが橋上にフランスの旗を揚げたアルコレ近郊にフランス軍とともにいた(アルコレの戦い)。グロはこの出来事に飛びつき、画家は自身の天職であると思い定める作品『アルコレ橋のボナパルト』を仕上げたのである。ナポレオンはすぐにグロにinspecteur aux revues(掠奪する美術品の評価監査員)の地位を与え、グロを軍に同行させることにした。1797年にはルーヴル美術館に収蔵する戦利品を吟味する委員会にグロを任命した。
出世三部作
1799年、包囲されたジェノヴァから逃れてグロはパリへ戻った。1801年初頭、グロはカプチン街に自分の部屋を持った。グロの『ナザレの戦い』のスケッチ画(現在ナント美術館蔵)に対して1802年に執政政府から賞金提供の申し出がなされたが実行に移されなかった。ナザレの騎兵戦で戦功をたてたジャン=アンドシュ・ジュノーをナポレオンが嫉妬したためと言われる。しかし、自身がヤッファのペスト患者の収容施設を見舞った際を描くよう命じてグロを保護した。グロはその『ヤッファのペスト患者たちを見舞うナポレオン』“Les Pestiférés de Jaffa”に続き、『アブキールの戦い』(ルーヴル美術館蔵、1806年)、『アイラウの戦い』(ルーヴル美術館蔵、1808年)を描き上げた。これらの3つの主題(つまり大衆の支持を得た指導者が不動の悪疫に直面する場面、勝利の素晴らしい瞬間へ挑戦する場面、激戦の苦い損失に心を痛める場面)が、グロに名声をもたらしたのである[1]。
『批判されたことへのいらだち、そして失敗したという自覚から、彼は人生のさらに濃い喜びの中へ身を隠す場所を見いだした』[1]。1835年6月25日、グロはセーヴル近郊のセーヌ川に身を投げ、既に溺死しているのを発見された。グロの帽子の中にあった一枚の紙には、こう書かれていた。"las de la vie, et trahi par les dernières facultés qui la lui rendaient supportable, il avait résolu de s’en défaire." (人生に疲れ、残った才能からも耐えうる批判からも、裏切られた。彼は全てを終わらせようと決意したのだ)。