アントニオ・デ・アブレウ (1480年 ごろ – 1514年 ごろ) は、ポルトガル の航海者、探検家。アフォンソ・デ・アルブケルケ の部下として1507年のホルムズ占領 や1511年のマラッカ占領 に参加した。1511年11月にはマラッカ から艦隊を率いて東方の「香料諸島」(モルッカ諸島 )を探索し、1512年にヨーロッパ人として初めてティモール島 やバンダ諸島 に達した[ 1] [ 2] 。
東南アジア遠征
ポルトガル軍がマラッカを攻撃している最中の1511年7月25日、アントニオ・デ・アブレウはジャンク船を使って満潮時を狙ってマラッカ川 を遡行し、翌月までにポルトガル軍がマラッカ市に上陸して占領するに至るまでに大きな役割を果たした。この戦闘でアブレウは一部の歯や舌を失う重傷を負い[ 3] 、アルケブルケから指揮官退任を打診されたが、彼はこれを断った。
同年10月にアルケブルケはバゴー やアユタヤ に使者を送った。その翌月、アルケブルケは信頼を置いていたアブレウに、東方にあるという香料諸島を探し出す任務を与えた。4隻の艦隊のカピタン・モール となったアブレウはサンタ・カタリナ号に乗り込み、副官にはフランシスコ・セラーン がつき[ 1] 、サバイア号に乗った。三隻目のキャラベル船はシモン・アフォンソ・ビサグドが司令官となり、有能な製図家フランシスコ・ロドリゲスが乗っていた[ 4] 。乗組員は120人のポルトガル人と60人の奴隷 で、水先案内人 として雇ったマレー人 の案内のもと、遠征隊はジャワ島 、小スンダ列島 、アンボン島 を経由して1512年初頭に目的地のバンダ諸島に到達した[ 5] [ 6] 。彼らはバンダに1か月ほど滞在し、その後アブレウはアンボイナへ向かった。なお副司令官のフランシスコ・セラーンはモルッカ諸島をさらに先へ進もうとしたが遭難し、テルナテ王国 に流れ着いてそこで死ぬまで過ごした。
アブレウは1512年12月にマラッカに帰還し、そこから1513年1月にフェルナン・ピレス・デ・アンドラーデ とともにポルトガルへの帰途に就いた。しかしアブレウはポルトガル本土にたどり着くことなく、アゾレス諸島で死去した[ 7] 。
脚注
^ a b Ricklefs, M.C. (1991). A History of Modern Indonesia since c.1300 (2nd ed.). London: Macmillan. p. 24. ISBN 0-333-57689-6
^ Hannard, Willard A. (1991). Indonesian Banda: Colonialism and its Aftermath in the Nutmeg Islands . Bandanaira: Yayasan Warisan dan Budaya Banda Naira. pp. 7–8
^ Diffie, Bailey (1977). Foundations of the Portuguese Empire, 1415–1580 . University of Minnesota Press. p. 259. ISBN 0-8166-0782-6 . https://books.google.com/books?id=vtZtMBLJ7GgC
^ Cortesão, Armando (1944). The Suma Oriental of Tomé Pires: an account of the east, from the Red Sea to Japan, written in Malacca and India in 1512–1515/The Book of Francisco Rodrigues rutter of a voyage in the Red Sea, nautical rules, almanack and maps, written and drawn in the east before 1515 . The Hakluyt Society. https://books.google.com/books?id=h82D-Y0E3TwC&lpg=PR81&dq=Simao%20Afonso%20Bisagudo&pg=PR81#v=onepage&q=Simao%20Afonso%20Bisagudo&f=false
^ Hannard (1991), page 7
^ Milton, Giles (1999). Nathaniel's Nutmeg . London: Sceptre. pp. 5, 7. ISBN 978-0-340-69676-7
^ Cortesão, Armando. The Suma Oriental of Tomé Pires
関連項目