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アンダース・ヤリード Anders Järryd |
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/85/Tennis_pictogram.svg/30px-Tennis_pictogram.svg.png) |
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基本情報 |
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フルネーム |
Anders Per Järryd |
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国籍 |
スウェーデン |
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出身地 |
同・リドシェーピング |
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生年月日 |
(1961-07-13) 1961年7月13日(62歳) |
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身長 |
180cm |
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体重 |
70kg |
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利き手 |
右 |
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ツアー経歴 |
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デビュー年 |
1980年 |
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引退年 |
1996年 |
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ツアー通算 |
67勝 |
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シングルス |
8勝 |
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ダブルス |
59勝 |
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生涯通算成績 |
1002勝503敗 |
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シングルス |
396勝260敗 |
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ダブルス |
606勝243敗 |
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生涯獲得賞金 |
5,371,067 アメリカ合衆国ドル |
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4大大会最高成績・シングルス |
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全豪 |
ベスト8(1987・88) |
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全仏 |
4回戦(1984・85) |
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全英 |
ベスト4(1985) |
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全米 |
ベスト8(1985) |
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4大大会最高成績・ダブルス |
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全豪 |
優勝(1987) |
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全仏 |
優勝(1983・87・91) |
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全英 |
優勝(1989・91) |
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全米 |
優勝(1987・91) |
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優勝回数 |
8(豪1・仏3・英2・米2) |
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国別対抗戦最高成績 |
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デビス杯 |
優勝(1984・87) |
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キャリア自己最高ランキング |
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シングルス |
5位(1985年7月22日) |
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ダブルス |
1位(1985年8月12日) |
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獲得メダル |
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アンデシュ・ペル・ヤリード(Anders Per Järryd, 1961年7月13日 - )は、スウェーデン・リドシェーピング(スウェーデン語版)出身の元男子プロテニス選手。1980年代から1990年代前半にかけて活躍し、スウェーデンの男子プロテニス界の最盛期をリードした選手のひとりである。ヤリードは優れたダブルス選手として、男子ダブルスですべての4大大会でのタイトルを獲得する「キャリア・グランドスラム」を達成した。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス8勝、ダブルスで4大大会「8勝」を含む59勝を挙げた。
経歴
1980年にプロ入り。1981年から男子テニス国別対抗戦デビスカップスウェーデン代表選手になる。1983年全仏オープン男子ダブルスで、ヤリードは同じスウェーデンのハンス・シモンソンとペアを組み、決勝でマーク・エドモンドソン/シャーウッド・スチュワート組を破って初優勝した。1984年後半から、ヤリードはダブルスでステファン・エドベリとペアを組む機会が多くなる。同年暮れの12月16日-18日、デビスカップ1984決勝の対アメリカ戦が地元スウェーデンで行われた。ヤリードとエドベリは、第3試合のダブルス戦でジョン・マッケンロー/ピーター・フレミング組に勝ち、スウェーデン代表は1975年以来9年ぶり2度目のデビスカップ優勝を飾った。マッケンローとフレミングは長年アメリカ代表の「無敗ペア」であったが、ヤリードとエドベリにデビスカップダブルス戦の連勝記録を止められ、2人のペアの記録は「14勝1敗」で止まった。
1985年にヤリードはシングルスでも成績を伸ばし、ウィンブルドン選手権で初の準決勝に進出した。ヤリードを準決勝で破ったボリス・ベッカーは、この大会の初優勝で「17歳7ヶ月」の大会最年少優勝記録を樹立する。続く全米オープンでは、ヤリードはマッツ・ビランデルとの準々決勝を途中棄権した。2年後の1987年、ヤリードは4大大会男子ダブルスで年間3冠獲得を達成した。全豪オープンと全米オープンではステファン・エドベリと組んだが、途中の全仏オープンではロバート・セグソと組んでいる。セグソと組んだ全仏オープン決勝では、地元フランスのヤニック・ノア/アンリ・ルコント組を2セット先取されてから逆転し、続く3セットを連取して6-7, 6-7, 6-3, 6-4, 6-2の逆転勝利を収めた。この年に唯一ダブルス優勝を逃したウィンブルドン選手権では、ヤリードとエドベリは準決勝でエミリオ・サンチェス/セルヒオ・カサル組に敗れた。1987年度のヤリードは、ダブルスで4大大会3冠を含む年間8勝を記録した。
1988年ソウル五輪は、オリンピックテニス競技が復活し、プロ選手の出場が認められた歴史的な大会である。ヤリードはオリンピックのスウェーデン代表選手として初参加し、シングルスは3回戦で敗退したが、エドベリとのダブルスで銅メダルを獲得した。1989年から、ヤリードは大半のトーナメントでジョン・フィッツジェラルドと組むようになる。ついに1989年ウィンブルドン選手権で、ヤリードはフィッツジェラルドとのペアで初優勝を飾り、「キャリア・グランドスラム」達成者の1人となった。
30歳を迎えた1991年、アンダース・ヤリードはフィッツジェラルドとのペアで全仏オープン・ウィンブルドン・全米オープンに3連勝を成し遂げ、自身のキャリアで2度目の4大大会ダブルス年間3冠獲得を達成した。しかし、ヤリードとフィッツジェラルドは1992年全豪オープンで3回戦敗退に終わり、4大大会ダブルス4連勝を逃してしまう。1993年全豪オープンでは、このペアで決勝に進み、ヤリードにとってはステファン・エドベリと組んだ1987年以来6年ぶり2度目の全豪決勝の舞台に立ったが、ここでも準優勝に終わった。結局、ヤリードはフィッツジェラルドとの同一ペアによるキャリア・グランドスラムを果たせなかった。
ヤリードは現役を引退する1996年まで、スウェーデンを代表するダブルス選手として精力的な活動を続けた。彼と同じ年に、ステファン・エドベリも30歳で現役引退を表明し、スウェーデンの男子テニス界の黄金期が幕を閉じた。
4大大会ダブルス優勝
- 全豪オープン:1勝(1987年) [準優勝1度:1993年]
- 全仏オープン:3勝(1983年・1987年・1991年) [準優勝2度:1986年・1989年]
- ウィンブルドン:2勝(1989年・1991年) [準優勝1度:1988年]
- 全米オープン:2勝(1987年・1991年) [準優勝1度:1984年]
ダブルス成績
0
大会 |
1981 |
1982 |
1983 |
1984 |
1985 |
1986 |
1987 |
1988 |
1989 |
1990 |
1991 |
1992 |
1993 |
1994 |
1995 |
1996 |
SR
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全豪オープン
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1R
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A
|
2R
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A
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A
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NH
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W
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QF
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QF
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A
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3R
|
3R
|
F
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3R
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A
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A
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1 / 9
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全仏オープン
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A
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1R
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W
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3R
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SF
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F
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W
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F
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SF
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1R
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W
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2R
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3R
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2R
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3R
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A
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3 / 14
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ウィンブルドン
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A
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2R
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SF
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3R
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3R
|
1R
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SF
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F
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W
|
1R
|
W
|
2R
|
2R
|
1R
|
1R
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1R
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2 / 15
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全米オープン
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A
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A
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2R
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F
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2R
|
2R
|
W
|
3R
|
SF
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QF
|
W
|
3R
|
A
|
1R
|
3R
|
A
|
2 / 12
|
SR
|
0 / 1
|
0 / 2
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1 / 4
|
0 / 3
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0 / 3
|
0 / 3
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3 / 4
|
0 / 4
|
1 / 4
|
0 / 3
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3 / 4
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0 / 4
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0 / 3
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0 / 4
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0 / 3
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0 / 1
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8 / 50
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外部リンク
![イギリスの旗](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Flag_of_the_United_Kingdom_%283-5%29.svg/25px-Flag_of_the_United_Kingdom_%283-5%29.svg.png) ウィンブルドン(オープン化以後)男子ダブルス優勝者 |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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