アレクサンドラス・ストゥルギンスキス (リトアニア語 : Aleksandras Stulginskis [ɐlʲɛkˈsɐ̂ˑndrɐs stʊlʲˈɡʲɪ̂nʲsʲkʲɪs] ( 音声ファイル ) 、1885年 2月26日 – 1969年 9月22日 )は、リトアニア共和国 第2代大統領 (在任:1920年 – 1926年)。退任後、1926年に元大統領アンターナス・スメトナ がクーデター (英語版 ) を起こすと、数時間ながら大統領代行を務めた。
略歴
1922年のポスターに描かれているストゥルギンスキス(左)と米大統領ウォレン・G・ハーディング 。
最初はインスブルック大学 で神学を学んだが[ 1] 、やがて聖職者の道を諦め、ハレ大学 農学部に移り1913年に卒業した。卒業後は帰国して農業に従事、作物栽培学 の記事を書いた。1918年、『農夫』(Ūkininkas )と『農夫のカレンダー』(Ūkininko kalendorius )の2誌の出版を始めた。
第一次世界大戦 中にヴィリニュス に移住してキリスト教民主党 の設立に関わり、1917年には同党の中央委員会主席を務め、米国によるリトアニアの国家承認を米大統領ウッドロウ・ウィルソン 大統領に求める覚書にも署名した。同時期の政治家アンターナス・スメトナ と違い、ストゥルギンスキスは連合国 を支持したという。同年のヴィリニュス会議 (英語版 ) の主催者の1人であり、リトアニア評議会 (英語版 ) の委員にも選出された[ 1] 。
1918年2月16日、リトアニア独立宣言 に署名した[ 1] 。リトアニアの政体については民主共和政を主張し、君主制には強く反対した。独立直後は国軍の編成に専念し、ボリシェヴィキ とポーランド の侵攻に備えた。
1918年から1919年まで副首相、内相、農業相を務め、1920年から1922年までリトアニア制憲議会 (英語版 ) の議長、並びに暫定大統領を務めた[ 1] 。その後、1922年から1926年までリトアニア共和国大統領を務め、1926年のクーデターの後はセイマス議長 (英語版 ) に当選、1927年4月にセイマスが解散するまで務めた[ 1] 。
1927年に政界から引退し、リトアニア西部にある自身の農園の経営に専念したが、ときどき発言して民主制の必要性を説いた[ 1] 。1941年6月[ 1] に妻と共にソビエト連邦 内務人民委員部 に逮捕され、妻はコミ共和国 に移送されたがストゥルギンスキスはクラスノヤルスク のグラグ に移送された。第二次世界大戦 後の1952年、「戦前のリトアニアにおける反社会主義者と聖職者の政策」によりソ連から25年の懲役刑を言い渡された。
1956年に釈放され[ 1] 、出国を許可されたが、それを拒否してリトアニア・ソビエト社会主義共和国 に戻った。以降は余生をカウナスで過ごし、1969年9月22日に84歳で死去した[ 1] 。リトアニア独立宣言に署名した人物 (英語版 ) では最後の存命者だった。
1924年の農業アカデミー設立に関与し、死後の2011年6月には農業アカデミーの後身であるリトアニア農業大学がアレクサンドラス・ストゥルギンスキス大学 に名称変更した[ 2] 。
評価
大統領としては勤勉で、政治的野心は慎んだという[ 1] 。
出典
関連図書
Stulginskis, Aleksandras . Encyclopedia Lituanica V: 314-316. (1970–1978). Ed. Simas Sužiedėlis. Boston, Massachusetts: Juozas Kapočius. LCC 74-114275.
President of Lithuania: Prisoner of the Gulag a Biography of Aleksandras Stulginskis by Afonsas Eidintas Genocide and Research Center of Lithuania ISBN 9986-757-41-X .
外部リンク