アスカーニエン家 またはアスカニア家 (ドイツ語 : Askanier )は、ドイツ の家系の1つ。11世紀 頃から神聖ローマ帝国 の領邦君主 として、中世 から近世 を通してアンハルト公国 を治め、一族はブランデンブルク辺境伯 、ザクセン=ヴィッテンベルク 、ザクセン=ラウエンブルク 、リューネブルク侯領 も統治していた。傍流からはロシア皇帝 も輩出した。
アッシャースレーベン伯(アスカニア伯)の紋章
バレンシュテット伯の紋章
ザクセン公の紋章
家名の残る最も古い記録では、ドイツ・ザクセン=アンハルト州 ザルツラント郡 のアッシャースレーベン (Aschersleben )城の城主であり「アッシャースレーベン伯」と名乗って、その名はラテン語で書かれている[1] 。近世以降、現在に至るアンハルト家 がその主流の血族である[2] 。
アスカン家 とも呼ばれる[3] 。
歴史
家祖は11世紀に登場したエジコ・フォン・バレンシュテット とされている。エジコはアンハルト 地方のシュヴァーベンガウ (ドイツ語版 ) 伯でもあり、この領土は子孫に受け継がれていった。
エジコの曾孫に当たるアルブレヒト熊公 は父オットー からバレンシュテット伯領を相続、母エイリーケがビルング家 最後のザクセン公 マグヌス の娘であったことからザクセン の相続権も有していたが、ザクセンはロタール・フォン・ズップリンブルク(後の神聖ローマ皇帝 ロタール3世 )が領有、後にマグヌスの外孫でロタール3世の婿でもあった従兄のヴェルフ家 出身のバイエルン公 ハインリヒ傲慢公 がザクセンを治めた。
ハインリヒ傲慢公はローマ王 コンラート3世 から領土を取り上げられ、アルブレヒト熊公はザクセンを与えられたが実効支配出来ず、1142年 にザクセンを放棄、傲岸公の息子ハインリヒ獅子公 にザクセンを譲った。その後は東に領土を拡大、1157年 に初代ブランデンブルク辺境伯 に任命された。
1170年 にアルブレヒト熊公は死去、ブランデンブルクは長男のオットー1世 が相続、アンハルトは末子のベルンハルト3世 が相続した。1180年 にハインリヒ獅子公が神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世 に帝国追放されて所領が没収された後、ザクセンはベルンハルト3世に与えられ、ザクセンの再領有を果たした。ベルンハルト3世が1212年 に亡くなると、2人の息子アルブレヒト1世 がザクセンを、ハインリヒ1世 がアンハルトを分割相続した。アルブレヒト1世の死後にも分割相続が行われ、2人の息子ヨハン1世 とアルブレヒト2世 の家系はそれぞれザクセン=ラウエンブルク 、ザクセン=ヴィッテンベルク に分かれていった。
一方、ブランデンブルク系は1320年 に断絶、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世 が姻戚関係(ハインリヒ2世 の母方の叔父)からブランデンブルクを領有、数度の変遷を経てホーエンツォレルン家 が獲得した。アンハルト系もハインリヒ1世の死後に分割相続となり、小規模な国家群を治めている状態に過ぎなかった。
神聖ローマ帝国は度々二重選挙や対立王 の擁立が行われたが、ザクセン=ラウエンブルク系とザクセン=ヴィッテンベルク系も別々の王を支持、対立関係が生じた。最終的に単独のローマ王(1355年 に皇帝に即位)となったカール4世 は1356年 に金印勅書 を発布、皇帝選挙権を持つ選帝侯 の数を7人に定め、自分の支持者であったザクセン=ヴィッテンベルク系のルドルフ1世 をザクセン選帝侯とした。以後、ザクセン=ヴィッテンベルクはザクセン選帝侯領 と呼ばれる。なお、ルドルフ1世の息子ヴェンツェル と孫のアルブレヒト3世 は一時期ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家 (ヴェルフ家)とリューネブルク侯領 を巡る遺産相続戦争を起こしてリューネブルク侯領を獲得したが、彼らの死後はブラウンシュヴァイク=リューネブルク家が領有した。
1422年 、アルブレヒト3世 の死によってザクセン=ヴィッテンベルク系は断絶した。カール4世の次男の神聖ローマ皇帝ジギスムント はヴェッティン家 のマイセン辺境伯 フリードリヒ4世 にザクセン選帝侯領を与えた。ザクセン=ラウエンブルク系も1689年 にユリウス・フランツ の死で断絶、リューネブルク侯ゲオルク・ヴィルヘルム に奪われ、後に甥で婿のグレートブリテン王 兼ハノーファー選帝侯 ジョージ1世 が相続、ハノーヴァー朝 の大陸領に組み込まれた。
こうした中、アンハルト系はアンハルト=ツェルプスト侯 ヨアヒム・エルンスト が統一、ハインリヒ1世以来の単独のアンハルト領が復活したが、ヨアヒム・エルンストの死後は5人の息子が共同統治した後領土を分割、アンハルトは再び分裂状態になった。長男ヨハン・ゲオルク1世 の子孫はアンハルト=デッサウ侯国を統治、プロイセン王国 (選帝侯に昇格したブランデンブルクも治めていた)に軍人として仕えた。レオポルト3世 は1807年 にオーストリア皇帝 フランツ1世 によってアンハルト公 に昇格、孫のレオポルト4世 は分裂していたアンハルト諸領を相続、アンハルト領の再統一を果たした。
その後アンハルト公国はドイツ帝国 の構成国の1つとなったが、1918年 に第一次世界大戦 を経てドイツ革命 が勃発、最後のアンハルト公ヨアヒム・エルンスト は退位してアスカーニエン家のアンハルト統治は終わった。
なお、18世紀 のロシア女帝 エカチェリーナ2世 はアンハルト系の分家に当たるアンハルト=ツェルプスト侯クリスティアン・アウグスト と妃ヨハンナ・エリーザベト の娘で、母を通してロマノフ家 に縁がある関係で又従兄 に当たるピョートル3世 と結婚、ロシア へ移り住んだ。1762年 にピョートル3世をクーデター で廃位(その後暗殺 )して自ら即位、彼女の子孫は1917年 にロシア革命 で打倒されるまでロシア帝国を統治した。
系図
参照リンク:信頼できる家系図は、末裔のアンハルト家が所有しているが、その主要な一部がサイトで公開されている[4] 。
ブランデンブルク辺境伯
ブランデンブルク辺境伯、ブランデンブルク=シュテンダル辺境伯
ブランデンブルク辺境伯
アンハルト侯
ヴァイマル=オーラミュンデ伯
ヘルマン1世
ジークフリート3世
アルブレヒト2世
ヘルマン2世
<オーラミュンデ系> ヘルマン3世
<ヴァイマール系> オットー3世
ハインリヒ3世
ヘルマン4世
オットー4世
ハインリヒ4世
フリードリヒ1世
ヘルマン6世 (1372年没)
オットー6世
ハインリヒ5世
オットー10世
ヴィルヘルム1世
フリードリヒ6世 (1486年没)
出典
^ Codex diplomaticus Anhaltinus (CDA), Teil I, Nr. 337.
^ “Haus Anhalt-Askanien ”. Bruderschaft der Askanier e. V. . 2023年2月25日 閲覧。
^ 下津清太郎 編『世界帝王系図集 増補版』近藤出版社、1982年、p.324
^ “Der Stammbaum der Askanier ”. Bruderschaft der Askanier e. V. . 2023年2月25日 閲覧。
^ Gerd Heinrich, Berlin und Brandenburg , Kröner, 1985.
^ Bernd-Ulrich Hergemöller, "Pfaffenkriege" im spätmittelalterlichen Hanseraum : Quellen und Studien zu Braunschweig, Osnabrück, Lüneburg und Rostock , Böhlau, 1988.
関連項目