ヨハン5世 (ザクセン=ラウエンブルク公)

ヨハン5世
Johann V.
ザクセン=ラウエンブルク
ヨハン4世の紋章(ルーカス・クラナッハによる木版画)
在位 1463年 - 1507年

出生 (1439-07-18) 1439年7月18日
死去 (1507-08-15) 1507年8月15日(68歳没)
配偶者 ドロテア・フォン・ブランデンブルク
子女 本文参照
家名 アスカーニエン家
父親 ザクセン=ラウエンブルクベルンハルト2世
母親 アーデルハイト・フォン・ポンメルン=シュトルプ
宗教 キリスト教カトリック
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ラウエンブルクの居城

ヨハン5世(Johann V., 1439年7月18日 - 1507年8月15日)は、ザクセン=ラウエンブルク公(在位:1463年 - 1507年)。ザクセン=ラウエンブルク公ベルンハルト2世と、ポンメルン=シュトルプ公ボギスラフ8世の娘ドロテアとの間の長男。ヨハン4世ともいわれる[注釈 1]

生涯

ヨハン5世は1180年から1182年にベルンハルト1世により建設が開始されたザクセン=ラウエンブルクの居城を火災の後に再建した[1]

1407年以来、3,000ラインギルダーの担保としてハンブルクに質入れされていたザクセン=ラウエンブルクの飛び地ラント・ハーデルンを、1481年に買い戻した[2]。その後、ヨハンは息子であり後継者であるマグヌスをハーデルンの副摂政とし、1498年には最終的に摂政とした[3]

摂政となったマグヌスは、1484年にヴェーザー河口の北海の湿地帯にあったフリース人自由民の事実上の自治区である豊かなラント・ヴルシュテンを征服することに失敗したが、1498年11月24日に父ヨハンおよびブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯ハインリヒ1世と同盟を結び、2度目のヴルシュテン征服において成功を収めた[4][5]。しかし、1499年9月9日、ヴルシュテン、ブレーメン大司教、ディトマーシュ、ブレーメン、ブクステフーデおよびハンブルク、シュターデの諸都市によるヨハンとマグヌスに対する先制攻撃がなされ、父子の遠征は大きな損失を伴うものとなった[3]。1499年12月初旬までに、ブレーメン大司教ヨハン・ローデはハインリヒ1世を寝返らせ、マグヌスは支援を失った[6]

ブラウンシュヴァイク公=カレンベルクゲッティンゲン侯エーリヒ1世およびハインリヒ1世の仲介で、ブレーメン大司教ヨハン・ローデとマグヌスは父ヨハンのために1500年1月20日に和平を締結した[6]。ハーデルンはマグヌスに返還されたが、ヴルシュテンの住民は8月18日にローデに忠誠を誓ったため、最終的には戦争前と比べほとんど変化がなかった[7]

結婚と子女

1464年2月12日、ヨハン5世はブランデンブルク選帝侯フリードリヒ2世の娘ドロテア・フォン・ブランデンブルク(1446年 - 1519年3月)と結婚し、以下の子女をもうけた。

  • アーデルハイト - 早世
  • ゾフィー(1497年以前没) - 1491年11月29日にシャウムブルク伯アントンと結婚
  • アンナ(1468年 - 1504年) - 1490年にヨハン・フォン・リンダウ=ルッピンと結婚
  • マグヌス1世(1470年 - 1543年) - ザクセン=ラウエンブルク公
  • ベルンハルト(1524年没) - ケルンおよびマグデブルク律修司祭
  • エーリヒ(1472年 - 1522年) - ヒルデスハイム司教(エーリヒ2世、1501年 - 1503年)、ミュンスター司教(エーリヒ1世、1508年 - 1522年)
  • ヨハン(1483年 - 1547年) - ヒルデスハイム司教(ヨハン4世、1503年 - 1547年)
  • フリードリヒ(1501年以前没)
  • ルドルフ(1503年没)
  • ハインリヒ - 早世
  • カタリーナ - ラインベークシトー会修道女
  • エリーザベト(1489年 - 1541年) - ブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン公ハインリヒ4世と結婚

庶子が1人いる。

  • ベルンハルト・フォン・ザクセン(1549年以前没) - ミュンスターの補佐司教、プトレマイス(今日のアッコ)の名目上の司教

注釈

  1. ^ 系図によっては、ヨハン5世の叔父ヨハン4世は共同統治の公爵にすぎず、子供を持たずに亡くなったため、歴代公爵として数えられていない場合がある。そのため、ヨハン5世が4世と数えられる場合、ヒルデスハイム司教である息子ヨハン4世と混同されることがある。

脚注

  1. ^ Bornefeld 2008, p. 383.
  2. ^ Boeselager 1995, p. 331.
  3. ^ a b Boeselager 1995, p. 332.
  4. ^ Krause 1881, p. 184.
  5. ^ Schütz 2008, pp. 266seq.
  6. ^ a b Schütz 2008, p. 268.
  7. ^ Schütz 2008, p. 269.

参考文献

  • Elke Freifrau von Boeselager, „Das Land Hadeln bis zum Beginn der frühen Neuzeit", in: Geschichte des Landes zwischen Elbe und Weser: 3 vols., Hans-Eckhard Dannenberg und Heinz-Joachim Schulze (eds.), Stade: Landschaftsverband der ehem. Herzogtümer Bremen und Verden, 1995 and 2008, vol. I 'Vor- und Frühgeschichte' (1995), vol. II 'Mittelalter (einschl. Kunstgeschichte)' (1995), vol. III 'Neuzeit (2008)', (=Schriftenreihe des Landschaftsverbandes der ehem. Herzogtümer Bremen und Verden; vols. 7–9), ISBN (vol. I) ISBN 978-3-9801919-7-5, (vol. II) ISBN 978-3-9801919-8-2, (vol. III) ISBN 978-3-9801919-9-9, vol. II: pp. 321–388.
  • Cordula Bornefeld, "Die Herzöge von Sachsen-Lauenburg", in: Die Fürsten des Landes: Herzöge und Grafen von Schleswig, Holstein und Lauenburg [De slevigske hertuger; German], Carsten Porskrog Rasmussen (ed.) on behalf of the Gesellschaft für Schleswig-Holsteinische Geschichte, Neumünster: Wachholtz, 2008, pp. 373–389. ISBN 978-3-529-02606-5
  • Karl Ernst Hermann Krause (1881), "Johann III. (Erzbischof von Bremen)", Allgemeine Deutsche Biographie (ADB) (in German), vol. 14, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 183–185
  • Michael Schütz, "Die Konsolidierung des Erzstiftes unter Johann Rode", in: Geschichte des Landes zwischen Elbe und Weser: 3 vols., Hans-Eckhard Dannenberg and Heinz-Joachim Schulze (eds.), Stade: Landschaftsverband der ehem. Herzogtümer Bremen und Verden, 1995 and 2008, vol. I 'Vor- und Frühgeschichte' (1995), vol. II 'Mittelalter (einschl. Kunstgeschichte)' (1995), vol. III 'Neuzeit (2008)', (=Schriftenreihe des Landschaftsverbandes der ehem. Herzogtümer Bremen und Verden; vols. 7–9), ISBN (vol. I) ISBN 978-3-9801919-7-5, (vol. II) ISBN 978-3-9801919-8-2, (vol. III) ISBN 978-3-9801919-9-9, vol. II: pp. 263–278.
先代
ベルンハルト2世
ザクセン=ラウエンブルク
1463年 - 1507年
次代
マグヌス1世

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