かつては、俳協、劇団河、青二プロダクション[6]、自らが代表を務めていたオフィスもり[7]に所属していた。
中華民国浙江省(現:中華人民共和国浙江省)で生まれ、終戦の1ヵ月ほど前に父の腕に抱かれて、母に背負われて中国大陸を南、東に移動し、海に渡る[2]。終戦後の2歳くらいの時に親に連れられて故郷の東京都に戻り[8]、東京都中央区日本橋のビルの谷間に建てられていたわずか一間の掘っ建て小屋に住む[2]。父は建築関係の仕事を見つけて懸命に就職し、その後一家は東京都文京区大塚仲町(現:東京都文京区大塚)に焼け残っていた土蔵を買い取って転居[2]。
10歳の時にラジオドラマ『少年猿飛佐助』の主役の一般公募に親が応募するが、面接通知が届いたのが面接翌日で、ひどく落胆した[9]。それを見た親に連れられて児童劇団の入団試験を受け、児童劇団こじか[1]に所属[9]。子役として活動した[9]。劇団入団後の初仕事はラジオドラマ『宇宙人類ノバ』の主役[1][10]。3年後、俳協の前身である太平洋テレビジョンに移る[9]。15-6歳のころにNHKの時代劇にレギュラー出演から俳優活動を始めるが、大人に言われるがままスタジオに行って演技の繰り返しから「この世界にいてもいいんだろうか」と不安になり、壁にぶち当たったりした[9]。それが原因で、何回か役者を辞めた時期があり、俳協でデスクやマネージャー、『科学忍者隊ガッチャマン』放送終了後の1975年に30歳の時に金融会社のサラリーマン[注 1]をやっていた経験がある[9]。
顔出しの仕事も並行しながら『マッハGoGoGo』で主人公・三船剛を演じる。共演した大宮悌二、富山敬、愛川欽也らに影響を受け、「声の仕事を優先的にやりたい」と思い、富山が所属していて愛川が移籍したこともあって所属事務所を河の会に移す[6][11]。
1970年 - 80年代のヒーローものに多数出演している。