鳩茲の戦い(きゅうじのたたかい)は、紀元前570年に呉と楚の間に発生した戦闘。衡山の戦いや鳩茲衡山の戦いとも言う。
紀元前570年、楚の令尹子重(中国語版)は領兵をもって呉を討伐した。鳩茲を攻め取り、軍は衡山(中国語版)に至った。子重は先行し帰国し、大宴で慶賀した。部下の鄧廖率いる組甲兵三百・被練兵三千を派遣して、呉を侵略した。
呉軍はこの時に攻勢に出て、楚軍を大敗させた。楚将の鄧廖は捕虜となり、楚軍に残った組甲兵八十・被練兵三百。3日後、呉軍は楚を討伐して、駕の邑を取り去った。楚人は子重を咎め、子重はその心病によって亡くなった[1]。
脚注
- ^ 《春秋左氏傳 襄公三年》:三年,春,楚子重伐呉,為簡之師,克鳩茲,至于衡山,使鄧廖帥組甲三百,被練三千以侵呉。呉人要而撃之。獲鄧廖,其能免者,組甲八十,被練三百而已,子重帰,既飲至,三日,呉人伐楚,取駕,駕,良邑也,鄧廖,亦楚之良也。君子謂:「子重于是役也,所獲不如所亡」。楚人以是咎子重,子重病之,遂遇心病而卒。