魏攻略戦(ぎこうりゃくせん)は、紀元前225年に秦が魏を滅ぼした戦い。
概要
戦国七雄のうち韓・趙[注 3]・燕[注 4]が滅び、秦は魏の攻略を本格的に行った。函谷関の戦いの直後から秦の攻撃は始まっていて、敗戦を重ねていた。
紀元前225年、秦将王賁は60万の大軍を率いて関中を出発し、楚北部の十数の城を攻め落とした。王賁は直ちに北上して魏を攻め、国都大梁を包囲した。当時、楚は防衛に専念していて、斉は傍観していた[1]。よって援軍が来るあてもなかった。
大梁は睢水、潁水、鴻溝の交差する位置にあり、城を囲む堀は非常に広く、守るに易く、攻めるに難い城であった。そのため、秦軍の攻めをまったく寄せ付けなかった。そこで王賁は、大梁に黄河の水を引いて水攻めにした。大梁は洪水によって破壊され、城壁が崩壊し、数十万人の住民が死亡した。3か月の後、魏王假は降伏し、魏は滅亡した[2]。『資治通鑑』によると魏王假は投降後、処刑された。秦は魏の領土を碭郡、泗水郡とした。
《史記·魏世家》には、この戦いの趨勢について信陵君が安釐王に語った予言が記されている。
「韓が滅亡した後、兵が出動する時には、魏だけが攻撃を受けることになるでしょう。秦は既に懐、茅、邢丘を持ち、城が崩れて津を通じて河内に至り、河内の共と汲も含まれます。これは必ず危険を招くでしょう。また、鄭の地を持ち、垣雍を得て、熒澤の水を引き込んで大梁を灌漑すれば、大梁は必ず滅びるでしょう。」[3]
脚注
引用
- ^ 島崎晋 (2019年3月). 《春秋戦国の英傑たち》97p. 双葉社. ISBN 9784575457889
- ^ 司馬遷『史記』魏世家、秦始皇本紀
- ^ 《史記·魏世家》「夫韓亡之後,兵出之日,非魏無攻已。秦固有懷、茅、邢丘,城垝津以臨河內,河內共、汲必危;有鄭地,得垣雍,決熒澤水灌大梁,大梁必亡。」
参考文献