都麻都比売神社(つまつひめじんじゃ)は、紀伊国名草郡の式内社(名神大社)。
概要
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳で紀伊国名草郡に「都麻都比売神社 名神大 月次新嘗」と記載された式内社(名神大社)で、和歌山県和歌山市内の次の三社が比定の論社とされている。
- 都麻津姫神社 (和歌山市吉礼) - 旧村社。
- 都麻都姫神社 (和歌山市平尾)
- 髙積神社 (和歌山市禰宜、北緯34度14分5.04秒 東経135度15分41.42秒) - 式内社「高積比古神社」「高積比売神社」の論社でもある。旧村社。 → 高積神社を参照。
祭神
社名に見えるようにツマツヒメ(都麻都比売命、抓津姫命)を祭神に祀る神社とされる。
ツマツヒメについて、『日本書紀』では一書として素戔嗚尊の娘神であると記載されている。また、ツマツヒメの兄神には五十猛命(イソタケル/イタケル)、姉神に大屋都姫命(オオヤツヒメ)があり、両神はそれぞれ伊太祁曽神社(和歌山市伊太祈曽)、大屋都姫神社(和歌山市宇田森)に祀られている。これら3神は紀伊国に木種をもたらした神であるといい、紀伊では「伊太祁曽三神」と総称されている。
歴史
概史
史料の初見は『続日本紀』大宝2年(702年)の記事[原 1]で、伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売3社を分遷したという記事である。
『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒[原 2]では、紀伊国の「都麻頭比売神」に対して13戸が給されている。関連して、承平年間(931年-938年)頃の『和名類聚抄』では紀伊国名草郡に「津麻(津摩)郷」が見えるが、これは「津麻神戸」を意味するとされる。
神階としては、貞観元年(859年)に伊太祁曽神・大屋都比売神とともに「神都摩都比売神」として従四位下に昇った。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では紀伊国名草郡に「都麻都比売神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。『紀伊国神名帳』では天神として「従四位上 都摩都比売大神」と記載されており、正一位に昇った伊太祁曽大神とは神階が開いた。なお、同帳では関連して「従四位下 妻都比咩大神」の記載も見える。
以降の歴史は明らかでなく、上記の神社がいずれにあたるかは諸説がある。
神階
- 六国史における神階奉叙の記録
- 六国史以後
- 従一位上 (『紀伊国神名帳』) - 表記は「都摩都比売大神」。「従四位上」の誤記か。
考証
式内社「都麻都比売神社」の比定は、現在も定かでない。古くは『紀伊国名所図会』や『南紀神社録』(延享3年(1746年))では山東の都麻津姫神社(吉礼、(1))に比定する。
また『紀伊続風土記』では、『南紀神社録』等でいわれる山東の都麻津姫神社(1)とは本来「吉礼津比売命」を祀るとしている。吉礼津比売命は『紀伊国神名帳』に「従五位下 吉礼津姫神」として見える。加えて『続風土記』では、「都麻都比売神社」として平尾の妻大明神社(現・都麻都姫神社、(2))をあてる説を挙げる。
これらの説の一方、日前神宮・國懸神宮と和佐荘との間で起こった水論(日前国懸神宮と高大明神の用水相論)での永享5年(1433年)の言上状では、高積神社(3)が古くは日前宮の地にあったといい、のちに鎮座地を移って山東、のち和佐山へと遷座したとする伝を載せている。この伝には『続日本紀』大宝2年(702年)の記事とも一致が見られることから、『続風土記』では高積神社が都麻都比売神社である可能性が高いとしている。
都麻津姫神社 (和歌山市吉礼)
都麻津姫神社(つまつひめじんじゃ)は、和歌山県和歌山市吉礼にある神社。式内社(名神大社)論社で、旧社格は村社。
祭神
主祭神
配祀神
歴史
紀伊国名草郡の名神大社「都麻都比売神社」の論社。『紀伊国名所図会』や『南紀神社録』(延享3年(1746年))ではこれを当社に比定する。一方『続風土記』ではこれを否定し、当社は『紀伊国神名帳』に見える「従五位下 吉礼津姫神」を祀る神社であるとし、都麻都比売神を高積神社に比定する。
神社明細帳によれば、当社は江戸時代に式内社「都麻津姫神社」として奉斎されたが、明治に入り「吉礼津姫神社」に改称した。明治6年(1873年)に旧社格において村社に列した。その後、昭和21年(1946年)に旧称の「都麻津姫神社」に復し現在に至っている。
摂末社
- 稲荷神社[4]
- 弁財天社
- 祇園社
- 合祀社
- 川御前社
- 御霊社
- 祖甫社
都麻都姫神社 (和歌山市平尾)
都麻都姫神社(つまつひめじんじゃ、都麻津姫神社)は、和歌山県和歌山市平尾にある神社。式内社(名神大社)論社。熊野古道の平緒王子社跡に接する。
祭神
歴史
紀伊国名草郡の名神大社「都麻都比売神社」の論社。『続風土記』では当社をこれに比定する説を挙げ、加えて『紀伊国神名帳』の「従四位下 妻都比咩大神」に比定する説を挙げる。
社名は『続風土記』では「妻大明神社」、『紀伊国名所図会』では「妻御前社」とある。『続風土記』によれば、かつて境内は2町半あり社殿も荘厳であったというが、天正の兵乱で荒廃、豊臣秀長の再興もあったが衰微したという。現在は6段あまりの境内に小祠が鎮座する。境内には元文5年(1740年)の石燈籠2基が立つ。
なお『寛永記』によれば、かつて正月朔日・10月初亥日・11月初巳日には伊太祁曽神社の社人が当社に出仕したという。
高積神社
脚注
注釈
原典:記載事項の一次史料を紹介。
- ^ 『続日本紀』大宝2年(702年)2月22日条。
- ^ 『新抄格勅符抄』10(神事諸家封戸) 大同元年(806年)牒。
出典
参考文献
- 式内社研究会編 編『式内社調査報告 第23巻 南海道』皇學館大学出版部、1987年。
- 奥鈴雄「都麻都比売神社」、中村貞史「高積比古神社・高積比売神社」
- 『日本歴史地名体系 31 和歌山県の地名』平凡社、1983年。ISBN 9784582490312。
関連項目
外部リンク
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