荒木 秀三郎(あらき しゅうざぶろう、1913年(大正2年)[1] - 1961年(昭和36年)2月2日[1])は日本の特撮映画、光学撮影専門の撮影技師。京都府出身[1]。姉は円谷英二の妻マサノ[1]。
経歴
商業高校卒業後、J.O.スタジオに入社[1]。戦時中は同盟通信社のニュースカメラマンとして移籍し、戦地に赴く[1]。主に、ニューギニアのパレンバン落下傘部隊に従軍した。
戦後は円谷の代行を経て東宝撮影所に移籍し、撮影技師を務めた[1]。映画『日本誕生』からは光学撮影専門となる[1]。
1961年2月2日、脳溢血によって死去。48歳没。後任は真野田幸雄。
人物
後輩の有川貞昌によれば、J.O.スタジオへ入社したのは義兄の円谷が在籍していたからであったが、荒木は集団作業を嫌い、自由な表現が可能なニュース映画の道へ移ったという[2]。
東宝では室内作業の責任者を務め、合成のほとんどを手掛けていた[2]。演出助手を務めていた中野昭慶は、荒木の合成に対する執着は凄まじいものであったと評しており、クランクインと同時に合成カットに手をつけても撮了後にまだ完成していないこともよくあったと証言している[3]。
有川は、荒木を先生のようであったと述べており、「技術は円谷から、人間は荒木から」教わったと自任している[2]。
映画
脚注
参考文献