熊沢 正夫(くまざわ まさお、1904年 (明治37年) 5月 - 1982年5月7日)は、日本の植物学者。愛知県出身。
息子は地球科学者の熊澤峰夫[2]。妹は熊沢光子[3]。
略歴
1904年 (明治37年) 5月に、愛知県名古屋市で生まれた[1]。父親は地方裁判所判事を歴任後弁護士を開業した[3]。東海中学校、旧制第八高等学校(現:名古屋大学)を卒業後、東京帝国大学(現:東京大学)理学物植物学科に進学[1]。1929年に同大卒。
1933年から旧制第四高等学校(現:金沢大学)に植物学の講師として勤務。翌1934年には同大教授となり、1942年まで勤務した[4]。
その後旧制第八高等学校に勤務。集団遺伝学者の木村資生は、1942年に同校で熊沢の指導を受けた[5]。同校が名古屋大学に組み込まれたあとは同大の教授として勤務。定年退職後に名古屋大学名誉教授となった[1]。
1979年に『植物器官学』を上梓。日本語の入門書が少なかった植物形態学の手頃な手引き書とされ、「植物の形態についての長年の研究歴に基いた広い視野の下でまとめられ、植物の器官についてもれなく記述されたもの」と評された[6]。
1982年5月7日に、78歳で死去[1]。本人の遺言に従って葬儀は行わず、死亡広告も掲載しなかった[1]。また遺体は、遺言に従って名古屋大学医学部に献体された[1]。
人物
二男八女兄弟の長男として生まれ、父親は弁護士だが貧しい人からは金を取らない人で、経済的に余裕のある家庭ではなかった[7]。学問以外にはあまり興味がなく、戦前の軍国調時代にも周りが丸坊主にする中、髪を切ることもなく、友人が通りすがりの神社で参拝しても横で待っているだけで、学生時代に妹の熊沢光子を散歩中に見かけても声をかけることもなく、光子とは彼女が赤色ギャング事件で検挙された際に父親と面会に行ったのが最後となった[7]。長年保管していた光子の遺書も息子の熊沢峰夫が結婚する際に、妻の実家を気遣って処分した[7]。
学術論文
著書
- 登山とキヤムピング (1931年、刀江書院)
- 上高地 : 登山と研究 (1934年、刀江書院) - 1980年に刀江書院から、1988年に名古屋大学山岳会からそれぞれ復刻。
- 植物器官学 (1979年、裳華房)
脚注
- ^ a b c d e f g 高木典雄「熊沢正夫先生を偲ぶ」『遺伝 : 生物の科学』第37巻第6号、東京 : エヌ・ティー・エス、1983年、53-55頁、CRID 1520573328519898112、ISSN 03870022、NAID 40000130195。
- ^ 水谷伸治郎「<お探しのページは見つかりませんでした>水杉物語:メタセコイアと気候変動」(PDF)『日本福祉大学情報社会科学論集』第6巻、半田 : 日本福祉大学情報社会科学部、2003年、45-62頁、CRID 1520853834662303360、ISSN 13434268、NAID 40005783551、国立国会図書館書誌ID:6550401。 [リンク切れ]
- ^ a b 『新・日本文壇史 5巻』川西政明、岩波書店、2011、p175
- ^ 河原栄, 佐久間大輔, 赤石大輔「四髙のキノコ・ムラージュの謎」『金沢大学資料館紀要』第6巻、金沢大学資料館、2011年3月、9-22頁、CRID 1050001335992388992、hdl:2297/27291。
- ^ Steen, Tomoko Y「Always an eccentric?: a brief biography of Motoo Kimura」『Journal of Genetics』第75巻、Springer India、1996年、19-25頁、doi:10.1007/BF02931748。
- ^ 岩槻邦男「熊澤正夫, 植物器官学, 裳華房, 1979年, 4200円. / T. A. Steeves & I. M. SUSSEX, (竹内郁夫・前田靖男訳), 植物の発生様式, 丸善, 1979年, 3500円。」『植物分類,地理』第30巻第4-6号、日本植物分類学会、1979年、179頁、CRID 1390001204441745408、doi:10.18942/bunruichiri.kj00001078331、ISSN 0001-6799、NAID 110003759955。
- ^ a b c 山下智恵子『幻の塔 ハウスキーパー熊沢光子の場合』BOC出版部、1985年 「第6章 兄が語る光子像」