横川 重次[1][2](よこかわ じゅうじ、1894年(明治27年)11月9日[3] - 1964年(昭和39年)9月11日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(8期)。埼玉県多額納税者[4][5]。武蔵野銀行相談役[3]。
経歴
埼玉県比企郡大河村腰越(現・小川町)出身[1][2]。横川宗作の長男[2][4][6]。旧制早稲田中学を経て[要出典]1917年、早稲田大学大学部文学科哲学科卒業[4][5]。ドイツに留学し[1]、ベルリン大学で社会学を専攻した[6]。1924年、家督を相続した[4]。
農業[4]、製材業[6]を営み埼玉県多額納税者となった[4]。大河村信用組合長[1]、小川無尽[7]、横川製材各社長[8]、武州本場絹織物工業、比企繭販売利用各組合長[6]などをつとめた。
1927年3月28日、第15回衆議院議員総選挙の埼玉県第3区補欠選挙で衆議院議員に当選[9]。立憲政友会に所属した[4]。1931年、犬養内閣が成立すると、商工大臣秘書官に任じ、従五位に叙せられる[2]。1939年、阿部内閣商工政務次官に就任した。
1945年に日本林業会長となる[3]。戦後、公職追放となり[10]、1951年に追放解除された[11]。追放解除後は1952年の第25回衆議院議員総選挙と1955年の第27回衆議院議員総選挙で2回当選した。1952年8月7日、日本共産党の人物に襲撃され、重傷を負った(横川元代議士襲撃事件)。1952年に武蔵野銀行取締役となり、1957年に相談役となる[3]。
人物
横川には「会って話してこんな気持ちのいい人はない」という定評があった[12]。清浄で、うそがいえない性格であった[12]。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した[13]。
宗教は浄土宗[3]。趣味は囲碁[3]。住所は埼玉県比企郡大河村腰越[3](現・小川町)、東京市豊島区池袋[6]。
家族・親族
- 横川家
横川家は埼玉県比企郡腰越村(現・小川町)の旧家、名望家である[14]。
- 親戚
脚注
参考文献
- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 織田正誠編『貴族院多額納税者名鑑』太洋堂出版部、1926年。
- 『御大典栄誉記念写真帖 昭和三年十一月』埼玉正論社、1929年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 東京毎夕新聞社編『大東京の現勢』東京毎夕新聞社、1932年。
- 『第三回普選総選挙大観』朝日新聞社、1932年。
- 交詢社編『日本紳士録 第36版』交詢社、1932年。
- 埼玉人物評論社編『埼玉人物評論』埼玉評論社総務部、1936年。
- 衆議院事務局編『総選挙衆議院議員当選回数調 - 第1回乃至第19回』衆議院事務局、1936年。
- 早稲田大学紳士録刊行会編『早稲田大学紳士録 昭和15年版』早稲田大学紳士録刊行会、1939年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第20版 東京篇』帝国秘密探偵社、1958年。
- 埼玉県議会史編さん委員会編『埼玉県議会史 6巻』埼玉県議会、1966年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
関連項目
外部リンク