岩手県立藤沢高等学校(いわてけんりつふじさわこうとうがっこう、英: Iwate Prefectural Fujisawa High School)は、岩手県東磐井郡藤沢町(現:一関市藤沢町)にあった公立高等学校。略称は藤高(ふじこう)[1]。
2006年4月に岩手県立千厩高等学校へ統合され、2008年3月を以って閉校した[2][3]。
概要・歴史
地元住民らによる高校設置運動が功を奏し、1948年4月に岩手県立千厩高等学校の定時制の分校として岩手県立千厩高等学校藤沢分校を開校した[3]。当初は定時制課程のみ設置され、男子は農業科、女子には家庭科を開設したが、1951年に全日制課程普通科を設置し男女問わず対象としている。開校した翌年に花王ヶ丘から藤沢小学校に移転して校舎の一部を借用する形となった。1950年に藤沢分校から岩手県立藤沢高等学校に昇格を果たし独立校となり、1953年には独自の校舎が落成し移転した。同年4月と1955年にそれぞれ全日制農業科と、当時東磐井郡の主要産業であったタバコを専門とした全日制農業(タバコ)科を開設しているが、1963年11月に生徒募集を停止し学級枠を普通科へ移行した。農業科に関しては閉科した時期が不明である[4]。
生徒数増加に伴い、1966年度から臨時の学級を設置し、通常の1学年2学級編成のところを最多で4学級編成としていた時期があったが1978年度を以って解消している。その後は1991年まで2学級ないし3学級分の新入生を募集していた[4]。
1971年に旧藤沢小学校へ再度移転を行い、数年間は旧藤沢中学校の校舎をそのまま使用したのち1978年に鉄筋コンクリート造3階建ての校舎が落成した。本校の閉校後は、施設一帯を一関市立藤沢中学校が使用している[3][4]。
生徒数は増加の一途を辿り1975・1976年度には最多となる540人の定員(全学年)を募集していたが、入学志願者の減少により400人台、300人台と段階的に減らしていった。2000年代以降は100人台の生徒数で推移しており、一関市内の高等学校では最小を叩き出していた[4][5]。
統合
こうした背景を踏まえ、2005年7月に岩手県教育委員会が望ましい学校の配置などを目的とする「県立高等学校新整備計画の後期計画」を策定し[6]、かつて本校だった岩手県立千厩高等学校への統合が当初の予定より1年間前倒しした形で決定した[3][4]。2006年4月の統合に伴い、本年度から新入生の募集を停止し閉校までの2年間は在校生のみとなった[5][7]。閉校に先立ち2007年10月に閉校記念碑「遂志の碑」の除幕式と文化祭が同日開催された[8]。
2008年3月1日に藤沢町縄文ホール(現:一関市藤沢文化センター)にて卒業式ならびに閉校式典が開催され、同月31日を以って57年間(分校を含めると約60年間)の歴史に幕を閉じ、延べ5,495人の卒業生を送り出した[3]。
校歌
1953年に制定された校歌は作詞に白鳥省吾、作曲に武田忠一郎が携わっている。白鳥は詩人で「星影のワルツ」というヒット曲で知られている。武田は音楽家として「東北民謡の父」と称されている[9]。
沿革
設置学科
廃止学科
課程
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学科
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設置年度
|
廃止年度
|
備考
|
全日制課程
|
農業科
|
1953年
|
不明
|
|
タバコ科
|
1955年
|
1965年
|
岩手県内唯一の学科
|
定時制課程
|
農業科
|
1948年
|
1954年
|
男子のみ
|
家庭科
|
女子のみ
|
出典:[3][4]
部活動
出典:[13]
運動部
文化部
同好会
いずれも2007年度に設立[14][13]。
- 陸上同好会
- フットサル同好会
- バドミントン同好会
- 男子テニス同好会
- 演技研究同好会
廃止した部活動
付属施設
主な施設を掲載。
- 体育館 - 校舎と接続
- 柔剣道場
- 校庭
- 遂志館(セミナーハウス)
- 而立園(庭園)
- 部室棟
- テニスコート
生徒・学級数
開校以降の定員数・生徒数・学級数の推移。1980年度以降は毎年度掲載。
年度
|
定員
|
生徒数
|
増減
|
学級数
|
増減
|
出典
|
備考
|
1948(昭和23)年度
|
不明[4]
|
65
|
|
不明
|
[1]
|
開校
|
1950(昭和25)年度
|
135[3]
|
不明
|
[3]
|
千厩高から独立
|
1966(昭和41)年度
|
350[3]
|
[4]
|
普通科+1(臨時)
|
1967(昭和42)年度
|
400[4]
|
1968(昭和43)年度
|
450[4]
|
1969(昭和44)年度
|
1972(昭和47)年度
|
9
|
|
3学級編成認可
|
1973(昭和48)年度
|
不明
|
普通科+1(臨時)
|
1975(昭和50)年度
|
540[3]
|
12
|
3
|
臨時増(3学級)
|
1976(昭和51)年度
|
12
|
0
|
1979(昭和54)年度
|
495[4]
|
11
|
-1
|
臨時増解消
|
1980(昭和55)年度
|
450[4]
|
441
|
376
|
10
|
-1
|
[16]
|
|
1981(昭和56)年度
|
405[4]
|
393
|
-48
|
9
|
-1
|
|
1982(昭和57)年度
|
381
|
-12
|
9
|
0
|
|
1983(昭和58)年度
|
378
|
-3
|
9
|
0
|
|
1984(昭和59)年度
|
354
|
-24
|
9
|
0
|
|
1985(昭和60)年度
|
360[4]
|
318
|
-36
|
8
|
-1
|
|
1986(昭和61)年度
|
315[4]
|
277
|
-41
|
7
|
-1
|
|
1987(昭和62)年度
|
266
|
-11
|
7
|
0
|
|
1988(昭和63)年度
|
274
|
8
|
7
|
0
|
|
1989(平成元)年度
|
275
|
1
|
7
|
0
|
|
1990(平成2)年度
|
274
|
-1
|
7
|
0
|
|
1991(平成3)年度
|
360[4]
|
294
|
20
|
8
|
1
|
臨時増(3学級)
|
1992(平成4)年度
|
291
|
-3
|
8
|
0
|
|
1993(平成5)年度
|
315[4]
|
285
|
-6
|
7
|
-1
|
|
1994(平成6)年度
|
260[4]
|
253
|
-32
|
6
|
-1
|
1学級40人化[4]
|
1995(平成7)年度
|
250[4]
|
235
|
-18
|
6
|
0
|
|
1996(平成8)年度
|
240[17]
|
221
|
-14
|
6
|
0
|
|
1997(平成9)年度
|
206
|
-15
|
6
|
0
|
|
1998(平成10)年度
|
192
|
-14
|
6
|
0
|
|
1999(平成11)年度
|
169
|
-23
|
6
|
0
|
|
2000(平成12)年度
|
160
|
-9
|
6
|
0
|
[18]
|
|
2001(平成13)年度
|
148
|
-12
|
6
|
0
|
[19]
|
|
2002(平成14)年度
|
148
|
0
|
6
|
0
|
[20]
|
|
2003(平成15)年度
|
141
|
-7
|
6
|
0
|
[21]
|
|
2004(平成16)年度
|
139
|
-2
|
6
|
0
|
[22]
|
|
2005(平成17)年度
|
117
|
-22
|
6
|
0
|
[23]
|
|
2006(平成18)年度
|
0[2]
|
69
|
-48
|
4
|
-2
|
[5]
|
募集停止
|
2007(平成19)年度
|
29
|
-40
|
2
|
-2
|
[7]
|
閉校
|
※定員数は全学年を含む
|
アクセス
鉄道
自動車
周辺
脚注
出典
関連項目
外部リンク
アーカイブサイト