小林 十九二(こばやし とくじ、1901年3月10日 - 1964年6月11日)は、兵庫県出身の俳優。
松竹で脇役俳優として活躍し、蒲田撮影所と大船撮影所で約200本の作品に出演した。神経質で気弱い男を当たり役[2]とし、大学生、若旦那、とぼけ役を多く演じた[3]。戦後は老け役で出演。
1901年(明治34年)3月10日、岡山県岡山市に生まれる[4][5][6](戦前の名鑑では兵庫県神戸市旭通生まれとされている[4][2][7])。
岡山市立工芸学校(現在の岡山県立岡山工業高等学校)を中退[7][3]後、学生新劇団を組織して各地を巡演する[4]。後に蒲田の日本自動車学校に入り、卒業後は同校で勤務するが、近所に松竹蒲田撮影所があったため次第に俳優を憧れるようになる[4]。1921年(大正10年)1月、諸口十九の弟子となり、蒲田撮影所に入社する。小林德二を芸名とし、同年7月に公開された諸口主演の『悪夢』でデビューした[4][8]。
1924年(大正13年)頃から二枚目として売り出し、梅村蓉子主演の『呪はれる貞操』などに準主役クラスで出演し、翌1925年(大正14年)に飯田蝶子、吉村秀也、二葉かほるらとともに準幹部に昇格[4][9][10]。同年、五所平之助監督『当世玉手箱』で初主演。牛原虚彦監督・鈴木伝明主演の青春映画などで助演し、蒲田のスター女優の田中絹代、松井千枝子らと共演、学生役や色敵役で非凡な芸を見せた[4]。やがて二枚目から三枚目に役どころを移し、1930年(昭和5年)に日本初の本格的トーキー映画『マダムと女房』には音楽家役で出演。五所平之助監督には特に重用され、五所の『花嫁の寝言』『伊豆の踊子』『人生のお荷物』等に脇役出演した。1933年(昭和8年)1月、坂本武とともに幹部待遇に昇格、1935年(昭和10年)には幹部に昇進した[5][10]。
1934年(昭和9年)3月16日、賭け麻雀をしていたとして福田蘭童、広津和郎ら13人、翌日には菊池寛、飯田蝶子、筑波雪子らが検挙され、同日午後に吉川満子、奈良真養、古川ロッパらと共に小林も検挙された[11]。
戦中は松竹を退社し、舞台生活を送って各地を巡演していた。戦後、黒澤明監督の『素晴らしき日曜日』などに出演し、1951年(昭和26年)に松竹大船撮影所へ復帰。多くの作品で助演したが、特に木下惠介監督作品には『二十四の瞳』『楢山節考』など計9本に出演した。1950年代後半からはテレビドラマにも出演。最後の出演映画は、没後に公開された黒澤監督の『赤ひげ』(ノンクレジット)だった。
1964年(昭和39年)6月11日、死去。63歳没。
太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品
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