佐々木 味津三(ささき みつぞう、明治29年(1896年)3月18日 - 昭和9年(1934年)2月6日)は、日本の小説家。佐佐木 味津三と表記されることもある。本名・光三。
愛知県北設楽郡下津具村(現・設楽町)出身[1]。旧制愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)を中退した後、明治大学政経科を卒業[1]。「馬を殴り殺した少年」(『大観』1919年8月号)「呪わしき生存」(「報知新聞」1921年2月4日~3月9日)で菊池寛に見出される[1]。『文藝春秋』創刊号から編集同人となり、芥川龍之介や直木三十五と交流があった[1]。
文壇に姿を現した当初は純文学を志していたものの、父親が遺した借金の為に経済的環境が厳しく、長兄を早くに亡くした事で家族を養い、また家の負債を返す必要が生じたために大衆小説に転向[1]。当時は格下といわれていた大衆向け小説を書くことに抵抗を感じたが、芥川龍之介から激励を受け感激し、そのことが後々まで影響したと自著に記している。『右門捕物帖』『旗本退屈男』など主に江戸時代を舞台にした時代小説を発表し、その当時の花形作家となる。
しかし、自らの体力を削って無理な執筆を重ね、そのため健康を害してしまい、1934年2月6日、急性肺炎のため東京市杉並区高円寺の自宅において若くしてこの世を去った。その死は、現在でいうところの過労死であるといわれている[1]。37歳没。戒名は文光院真諦三味居士(自らの撰)[2]。佐々木が残した資料は、遺族によって明治大学史資料センターに寄贈された[1]。
佐々木の代名詞となった作品『旗本退屈男』は、1930年(昭和5年)にこれを読んだ市川右太衛門が気に入って映画化。以後右太衛門の主演代表作となり、計31本の大ヒットシリーズとなった。以来、現在に至るまで度々映画やテレビドラマ化され高い人気を得ている。
また、『右門捕物帖』はアラカンこと嵐寛寿郎と山中貞雄によって「和製シャルロック・ホルムス」と銘打ち『むっつり右門』シリーズとして映画連作された。嵐寛寿郎は晩年、『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労、白川書院、1976年)の中で、次のように語っている。
これら嵐の談話が、映画関係の本に引用されることもあるが、実際には「むっつり右門」というあだなは小説の第一作で登場しているので嵐のハッタリか記憶違いである。
(以上、すべて嵐寛寿郎版)
(以上、すべて市川右太衛門版)
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