乾進丸(けんしんまる)[注釈 4]は、かつて乾汽船が運行していた貨物船。太平洋戦争前と太平洋戦争中の2回日本海軍により徴傭され、輸送任務中に撃沈された。
船名は、乾汽船が運行した船としては初代。乾汽船が運行した2代目の乾進丸については、乾進丸 (1948年)を参照のこと。
船歴
乾進丸は乾汽船の新造第5号船として播磨造船所に発注され、1940年(昭和15年)3月14日、播磨造船所相生工場で建造番号298番船として起工。8月3日、進水。10月16日、同所で竣工。
1941年(昭和16年)2月9日、日本海軍により徴傭され、横須賀鎮守府所管の海軍一般徴用船(雑用船)となる。8月29日、解傭。
1942年(昭和17年)5月16日、北方行船団に加入し駒橋の護衛を受け室蘭へ向け湊発。
6月5日、北方行船団に加入し澤風の護衛を受け小樽へ向け東京湾発。21日、北方行船団に加入し第18号掃海艇の護衛を受け小樽へ向け東京湾発。
1943年(昭和18年)2月12日11時、陸軍船南光丸(石原産業海運、4,714トン)、海軍一般徴用船田子の浦丸(三菱汽船、3,521トン)他輸送船3隻と共に第8212船団を編制し、眞鶴の護衛を受け横浜へ向け神戸発。13日に名古屋に到着。輸送船2隻が分離され、船団は引き続き横浜へ向かった。
7月7日、名古屋在泊中に再度日本海軍により徴傭、横須賀鎮守府所管のされ海軍一般徴用船(雑用船)となる。8日、四日市へ回航。14日、横須賀へ回航。19日、特設運送船(給炭油船)朝風丸(山下汽船、6,517トン)と共に第3719船団を編制し、雷の護衛を受けトラックへ向け横須賀発。29日、トラック着。8月6日、第5063船団に加入し特設駆潜艇第五昭南丸(日本海洋漁業統制、350トン)の護衛を受けクェゼリンへ向けトラック発、11日クェゼリン着。
25日、単独で第6252船団を編制し、特設砲艦大同丸(大阪商船、2,962トン)、特設駆潜艇第七昭南丸(日本海洋漁業統制、355トン)、特設捕獲網艇桂丸(関西汽船、540トン)の護衛を受けトラックへ向けクェゼリン発、31日トラック着。9月8日、特設運送船第十八眞盛丸(原商事、2,711トン)、特設運送船(給糧船)豊光丸(日魯漁業、1,521トン)と共に第4908船団を編制し、海防艦福江の護衛を受け横須賀へ向けトラック発、19日横須賀着。
23日徳山へ向け横須賀発、26日徳山着。30日横須賀へ向け徳山発、10月3日横須賀着。
10月8日、海軍一般徴用船北洋丸(北日本汽船、4,216トン)、特設運送船(給糧船)神洋丸(日本海洋漁業統制、4,736トン)、特設運送船第二号永興丸(大洋興業、3,516トン)と共に第3009乙船団を編制し、トラックへ向け横須賀発、20日トラック着。30日、第5301船団に加入しクェゼリンへ向けトラック発、11月3日クェゼリン着。
12月4日、特設運送船(給糧船)北上丸(日本海洋漁業統制、498トン)と共に第6042船団を編制し、第30号駆潜艇の護衛を受けトラックへ向けクェゼリン発、9日トラック着。
1944年(昭和19年)1月4日、ラバウルへ向けトラック発、10日ラバウル着。ラバウル在泊中の17日、アメリカ艦上機の攻撃を受けて被雷し、沈没した。沈没の際、船員22名が戦死した。2月29日、解傭。
脚注
注釈
- ^ 脚注なき限り『播磨50年史』p. 422およびpp. 458-459による。
- ^ 米海軍識別表[2]より(フィート表記)。
- ^ 米海軍識別表[2]より。
- ^ 船名読みは『昭和十七年版 日本汽船名簿』による。
出典
参考文献
- 海軍省
- 徴傭船舶行動整理表。
- 大東亜戦争徴傭船舶行動概見表 甲 第四回。
- 大東亜戦争徴傭船舶行動概見表 甲 第五回。
- 横須賀防備戦隊戦時日誌。
- 第四根拠地隊司令部/第二海上護衛隊司令部戦時日誌。
- 第二海上護衛隊戦時日誌。
- 逓信省、運輸通信省
- 『昭和十七年版 日本汽船名簿』。
- 海務院 『昭和十七年度 日本船名録』。
- 海運総局 『昭和十八年度 日本船名録』。
- 『石川島播磨重工業社史 沿革・資料編』、石川島播磨重工業、1992年。
- 『乾汽船60年の歩み』、乾汽船、1968年。
- 『戦没した船と海員の資料館』[1]、全日本海員組合。
- 『喪失船舶一覧表』、船舶運営会。
- 『播磨50年史』、播磨造船所、1960年。