中村砦 (なかむらとりで、英語 : Fort Nakamura )は、静岡県 掛川市 中(なか)(遠江国 城東郡 下方村 )にあった日本の城 。別名中村城山砦 (なかむらしろやまとりで、英語: Fort Nakamurashiroyama)[ 2] 。現在は城跡 が残る。高天神城 を包囲するために築かれた「高天神六砦 」の一つである[ 2] 。
概要
中村砦を統轄した大須賀康高 (伝狩野永納 筆『德川二十將図』)
遠江国 城東郡 の下方村 に立地する。高天神城 より東南 に3キロメートルほど離れており[ 2] 、海抜 30メートルほどの台地 に位置している[ 2] 。戦国時代 の頃は、この砦の北 には雑賀館 や帝釈山砦 などが置かれており[ 2] 、南 には入り組んだ入江 が広がっていた[ 2] 。そのため、下方村など附近一帯は、海運 による兵糧 や弾薬 の運搬が盛んであった[ 2] 。
1579年 (天正 7年10月 )、武田勝頼 方の高天神城 を攻略するために、徳川家康 により中村砦が築城された[ 2] 。築城にあたっては、堀 を造るとともに[ 2] 、土居 を築いたうえで塀 を設けたとされる[ 2] 。なお、家康の家臣 である松平家忠 が記した『家忠日記 』には、1580年 (天正8年3月 )の項に「大坂 堀 取出 普請 候」[ 3] [ 注釈 1] との記述があり[ 4] 、さらに続いて3月28日 に「中村普請出来候」[ 5] [ 注釈 2] との記述がみられることから[ 4] 、少なくともこの時点で中村砦は既に築城されていたと考えられる。
この中村砦は、小笠山砦 、能ヶ坂砦 、火ヶ峰砦 、獅子ヶ鼻砦 、三井山砦 とともに「高天神六砦 」と称された[ 2] [ 4] 。築城後は、徳川家康に任じられた大須賀康高 がこの砦を管轄し、高天神城への兵糧 や弾薬 の補給を遮断した[ 2] 。その結果、高天神城の将兵は飢えに苦しみ、城に立てこもる岡部元信 らは苦境に陥った。第二次高天神城の戦い により高天神城が落城すると、役割を終えたこの砦も廃止されることになった。
その後、中村砦跡の附近一帯は地形 が大きく変わり、南に広がっていた入江は失われ陸地 となった。さらに、周辺の宅地 化が進行しているものの[ 2] 、砦の遺構 はある程度残存しており[ 2] 、その往時を偲ばせている。2017年 (平成 29年)には、掛川市、中地区まちづくり協議会、中村砦城山保全会の三者による管理協定が締結され[ 6] 、中村砦跡の整備、保存が本格化した[ 6] 。この協定に基づき、中地区まちづくり協議会と中村砦城山保全会が砦跡の整備や管理を担い[ 6] 、掛川市が砦跡の遺跡 調査や広報 を担っている[ 6] 。
名称
この砦は、立地していた下方村など附近一帯が「中 」と呼ばれている村落 であったことから、「中村砦」と呼ばれるようになった[ 注釈 3] 。
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク