仙台藩士の中村氏(なかむらし)のうち、主要なものは下記の二系統である。本項では主に源姓中村氏(新田氏)について記述する。
- 源姓中村氏。家格は一家。元禄3年(1690年)までは新田氏を称していた。
- 藤姓中村氏。伊達家の連枝。
源姓中村氏
出自
寛政4年(1792年)成立の『伊達世臣家譜』では「中村(本は新田と称す)。姓は源、其の先を知らず、新田三河守某を以て祖と為す」とあり、元和5年(1619年)に当時の居城であった駒ヶ嶺城で発生した火災により、系譜・文書などを焼失したため、委細は不明であるとしている。
『栗駒町史』では、新田義貞の玄孫・義資が伊達成宗に仕えたのが始まりで、その甥・三河守義方が舘山城主になったとする[1]。一方『米沢市史』では、文化元年(1804年)成立の『米沢地名選』を引いて、新田氏はもともと奥州藤原氏の一族で、出羽国長井郡仁井田に住んで仁井田氏を称し、のちに仁井田が転訛して新田と名乗るようになったとしている。この新田氏は初め長井氏に仕えており、長井郡に侵攻して来た伊達政宗の謀略により滅ぼされたが、その末裔が明徳年間に召出されて伊達氏の家臣になったという。
概要
新田氏の活動が史料上に明確に現れるのは新田景綱(三河守の子とされる)の代からである。
景綱は出羽国長井郡舘山城主で、伊達稙宗・晴宗・輝宗の3代に仕え、天文の乱では晴宗方に味方し、乱の終結後には一家の家格に列した。景綱は嫡男・義直に家督を譲って隠居したが、後に両者は対立し、義直は妻の祖父・中野宗時と共に謀反を図ったとして自害を命じられ、次男の義綱が当主となった。義綱は伊達政宗の下で活躍し、天正19年(1591年)には加美郡柳沢城主となり、慶長4年(1599年)には宇多郡駒ヶ嶺城主となり、さらに義綱の子・義親は正保元年(1644年)に磐井郡藤沢に移った。
義親の曾孫・成義は、母が第4代藩主伊達綱村の乳母(白河義実室・針生氏)の娘であったことから綱村に重用された。元禄3年(1690年)9月、新田義貞の後裔と称する徳川将軍家に遠慮するとして、新田氏は苗字を改めるよう命じられた。この時、成義は綱村より伊達氏の出自である中村の苗字を下賜され、成義の大叔父・義春は藤沢の苗字を下賜された。また同元禄3年(1690年)11月には綱村の妹・三姫を娶り、元禄7年(1694年)には加増の上で栗原郡岩ヶ崎に移った。成義の子・義全には男子がおらず、分家の藤沢氏から義賢を婿養子として迎えた。
義賢の子・義景(のち景貞)は、第6代藩主伊達宗村の娘・認姫を娶り、若くして家老に抜擢された。文化6年(1809年)に第9代藩主伊達周宗が14歳で早世した際には、改易を免れるために三年間にわたって周宗の死を隠匿し、仙台藩の存続に成功した。
庶流・藤沢氏
新田義延の弟・義春は、兄が死去した際にその子・義影がまだ幼かったので、陣代として新田家を取り仕切った。義影が成長すると440石を分知されて別家を興し、太刀上の家格に列した。元禄3年(1690年)9月に新田の苗字を改めるよう命じられた際には藤沢の苗字を下賜された。これは当時の新田氏の所領であった藤沢にちなんだものである。
直系子孫に第1次若槻内閣の商工大臣・衆議院議長を務めた藤沢幾之輔がいる[要出典]。
系図
- 実線は実子、点線は養子。
新田景綱 |
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義直 | 義綱 |
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| | | 義親 |
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| | | 義延 | 藤沢義春 |
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| | | 義影 | 義広 |
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| | | 中村成義 | 義重 | 義次 |
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| | | 義全 | 義清 | |
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| | | 義賢 | 義連 |
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| | | 景貞 (義景) | 義規 |
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義氏 | 景房 (義房) | 景清 |
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| | | 宣景 | 景福 |
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| | | 宗三郎 (宣静) | 景翼 |
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| | | 小治郎 | 幾之輔 |
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藤姓中村氏
仙台藩においては、上記の源姓中村氏のほかにも、伊達家の連枝が別家を興す際に中村姓を下賜された藤姓中村氏があった。以下にその例を示す。
脚注
参考文献