この項目では、1940-1941年シーズンのリーガ・エスパニョーラ (ラ・リーガ、プリメーラ・ディビシオン)について述べる。
リーガ・エスパニョーラ1940-1941は、スペインのプロサッカーリーグ、リーガ・エスパニョーラの10回目のシーズンである。
1940年9月29日に開幕し、1941年3月30日に閉幕。クルブ・アトレティコ・デ・アビアシオンが2年連続2回目の優勝を決めた。
レギュレーション
- 「12チームのH&A2回戦総当たり・全22節」「勝ち点が勝利2・引分け1・敗北0」「勝ち点が並んだ時の順位決定法」に変化はなし。
- 来季からプリメーラ・ディビシオンのチーム数を14チームに拡大する。
- セグンダ・ディビシオン1940-1941上位2チームはプリメーラ・ディビシオン1941-1942へ自動昇格する。
- 今季プリメーラ・ディビシオンの11位・12位は自動降格せず、セグンダ・ディビシオン1940-1941の3位・4位と中立地マドリードで1試合制の入れ替え戦を行う。
クラブチーム名称の変更
1941年1月21日の言語統制令により連盟所属の全クラブチームが名称変更をした[1][2]。以下その内容をできるだけ簡潔にまとめる。
- Racing、Sporting、Athletic、Foot-ball Club=FCなど外国語はスペイン語の同じ意味の単語に直訳または除去。
- 第二共和制の1931年に「レアル」など王室関連称号を失ったクラブは元通りにする。
- 「Fútbol Club」=「FC」の語順は禁止。「Club de Fútbol」=「CF」にする。
1940-1941年シーズンの昇降格
1940-1941年シーズンのリーガ・エスパニョーラのチーム
リーガ・エスパニョーラ1940-1941のクラブチーム所在地
シーズンの流れ
優勝争い
昨季の好調をそのまま持ち込んだ王者アトレティコ・アビアシオン、僅差で2位に終わったセビージャCFが序盤から首位争いを演じた。レアル・マドリードCFも第6節に首位に立つなど割って入るが[5]、アビアシオンが首位を守って前半戦を折り返した[6]。第12節終了時には、開幕直後に大きく出遅れたアトレティコ・デ・ビルバオが怒涛の7連勝で一気に2位に浮上、勝ち点1差に迫った[7][8]。
それでもアビアシオンが決して首位を譲らないまま終盤に突入し、まずRマドリードが第20節で勝ち点5差をつけられ終戦[9]。同節セビージャもアビアシオンとの直接対決で敗れ、勝ち点5差が付き優勝の可能性が消滅した[10]。ラスト2節は勝ち点で並ぶアビアシオンとビルバオの争いとなったが、アビアシオンはビルバオと当該対戦が1勝1分けのため優位を持っていた[11][12]。
迎えた最終節、第16節から6連勝で追随してきたビルバオは[13]、アビアシオンの引き分け以下を願いつつラス・コルツで4位CFバルセロナと対戦。しかし24分にアズクラーに決められ0-1とビハインドを背負う。そのころアビアシオンは暫定本拠地バジェカスで8位レアル・オビエドCFを相手に、開始早々の5分にマニンが先制点。さらに38分にもマニンが2ゴール目を決めリードを広げた。
ラス・コルツのスコアが全く動かないまま、アビアシオンは後半開始直後の47分にカンポスが決定的な3点目を決め、優勝争いの決着は時間の問題となった。アビアシオンが3-0で勝ち2年連続2回目の優勝を決めた[14][15]。ビルバオは結局バルサに0-1と敗れ勝ち点2上積みも優勝もできなかった。だが6連勝と7連勝を1回ずつ記録し最終節まで優勝の可能性を残すなど、内戦後の新興勢力の台頭の中で存在感を示したシーズンだった[16]。
残留争い
このシーズンの残留争いは厳密に言えば「入れ替え戦回避争い」だった。序盤ビルバオやバルサが入れ替え戦圏内・危険域に沈むが[17][18]、中盤戦には立て直した。その後はオビエド、エルクレスCF、RCセルタ・デ・ビーゴ、サラゴサCF、RCムルシアらが下位グループを形成した[19]。第16節終了後にムルシアが11位に勝ち点差3をつけて[20]、残留に一歩前進。翌17節終了時には最下位サラゴサが10位に3差をつけられた[21]。
エルクレスは第18節に上位のセビージャに勝利し[22]、11位と3差の8位まで浮上[23]。第20節終了時にはセルタが6連敗を喫して、オビエドに勝ったサラゴサに抜かれ11位から最下位に転落した[24][25]。この時点でエルクレスの残留が確定、代わって6試合未勝利のオビエドが一気に9位まで落ちてきたが、第21節に戦意希薄なエルクレスを6-0で大破[26]。セルタとサラゴサが潰しあい[27]、ムルシアが敗れてオビエドの残留が決まった[28][29]。
最終節前の時点で入れ替え戦出場の可能性は、勝ち点13で並ぶ10位のセルタと11位のムルシア・勝ち点12の最下位サラゴサに絞られた。セルタの最悪のシナリオは自分たちが負けて、サラゴサとムルシアの直接対決でいずれかが勝つ事だった。だが蓋を開ければモチベーションで劣るエルクレスを敵地で5-0と圧倒し、あっさりと自力残留を決めた[30]。もう一つの試合はサラゴサが2-1で勝って11位に浮上、ムルシアの最下位が決定[31][32]。しかしこの試合に真の勝者は無く、両チームとも入れ替え戦行きが決定した。
結果
順位表
出典:
BDFútbol順位の決定基準: 1) 勝ち点 2) 当該対戦の勝ち点 3) 当該対戦の得失点差 4) 総得失点差 5) 総得点
(C) 優勝;
(R) 降格.
注釈:
- ^ a b バレンシアCFはCFバルセロナに対し3-1、3-4の1勝1分けで当該対戦勝ち点だ2-2だが、得失点差が7-4のため順位が上になった[33][34]。
- ^ a b レアル・オビエドCFはエルクレスCFに対し6-0、0-3の1勝1分けで当該対戦勝ち点が2-2だが、得失点差が6-3のため順位が上になった[35][36]。
勝敗表
出典:
BDFútbol色: 青 = ホームチームが勝ち; 黄 = 引き分け; 赤 = アウェーチームが勝利。
自動昇格チーム
入れ替え戦
プリメーラ・ディビシオン11位のサラゴサCFがセグンダ・ディビシオン1940-1941・昇格プレーオフ4位のCDカステリョンと対戦した。
プリメーラ・ディビシオン12位のRCムルシアがセグンダ・ディビシオン1940-1941・昇格プレーオフ3位のRCデポルティーボ・デ・ラ・コルーニャと対戦した。
得点ランク・記録
得点ランキング
ハットトリック
最少失点ゴールキーパー
できごと
- アトレティコ・アビアシオンのリカルド・サモラ監督は昨季のリーグ優勝後、「ロホ (赤)」の疑いで当局に拘束された。釈放後も6か月間ベンチ入り禁止処分を受けたので、第10節までラモン・ラフエンテが監督を代行。1940年12月4日に監督の座に復帰し、その後リーグを連覇した[64]。
出典
外部リンク