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ボグド・ハーン政権

大モンゴル国
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 Их Монгол улс
清
中華民国による外蒙古占領
1911年 - 1919年
1921年 - 1924年
中華民国による外蒙古占領
モンゴル人民共和国
モンゴルの国旗 モンゴルの国章
国旗国章
国歌: 百両の諾足の騾馬
モンゴルの位置
公用語 モンゴル語
首都 フレー
皇帝
1911年 - 1924年 ジェプツンダンバ・ホトクト8世
(ボグド・ハーン)
首相
1912年 - 1919年トグス・オチリン・ナムナンスレンモンゴル語版
1921年 - 1921年ダムビン・チャグダルジャヴ
1921年 - 1922年ドグソミーン・ボドー
1923年 - 1924年バリンギーン・ツェレンドルジ
変遷
からの独立を宣言 1911年12月29日
キャフタ条約調印1915年6月7日
中華民国の協定破棄1919年11月23日
人民革命政府成立1921年7月11日
人民共和制に移行1924年11月26日
通貨銀両
モンゴル・ドル

ボグド・ハーン政権(ボグド・ハーンせいけん)は、1911年から1924年まで断続的にモンゴルを支配した政権国号大モンゴル国モンゴル語ᠣᠯᠠᠨ᠎ᠠ
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 Олноо Өргөгдсөн Монгол улс)と称し、中国名は大蒙古國拼音: Dà Měnggǔ Guó)。活仏ジェプツンダンバ・ホトクト8世(ボグド・ハーン)皇帝ハーン)として戴いた君主国

歴史

トグス・オチリン・ナムナンスレン

20世紀に入ると、欧米列強植民地主義に圧倒され、清朝の衰退が顕著になっていた。そんな中、かねてより清の統治に不満のあった外蒙古諸王公は清朝からの分離独立を模索していた。1911年10月、辛亥革命によって清の実効統治が急速に弱体化すると、外モンゴルのハルハ地方の諸王侯はロシア帝国の力を頼って清からの独立を決意した。同年12月、モンゴル最高の活仏であるジェプツンダンバ・ホトクト8世を清朝皇帝に代わる君主としてボグド・ハーンに推戴する儀式が挙行された。こうして誕生したボグド・ハーン政権は、1913年には、同じく清朝からの独立運動を展開していたチベットとの間で相互承認条約を締結した。ボグド・ハーン政権の統治機構は清朝のそれをほぼ承継し、速やかな政府構築を行なった。また、内蒙古では諸王公の多くが1912年にはボグド・ハーンに帰服したため、南部境域安撫大臣を設け、1913年1月にはモンゴル軍を派遣し、一時はその大部分を制圧したが、政権の後ろ盾であるロシア帝国が中華民国北京政府との関係悪化を懸念し、モンゴル軍の内蒙古からの撤退を要求したため、断る術の無いボグド・ハーン政権は国土統一を目前にして撤収を余儀無くされた。

1915年キャフタ条約で中国の宗主権下での外蒙古は自治のみが承認された。内蒙古でも独立を目指す動きが見られたが、内蒙古の大半の地域が漢民族居住地になっており、中国は内蒙古を手放そうとしなかった。また、漢民族が主体の内蒙古を併合することで政権の主導権を奪われることを恐れたモンゴル人の思惑もあり(既に内蒙古では、漢族がモンゴル族の5倍近い人口となっており、内蒙古をモンゴル領とした場合、モンゴル族より漢族の数の方が多くなってしまう可能性があった)、内外蒙古の合併は実現しなかった。

1917年ロシア革命が勃発して外モンゴルの後ろ盾だったロシア帝国は崩壊したため、首相のトグス・オチリン・ナムナンスレンモンゴル語版は中国からの防衛を要請するために赤軍と接触するも失敗し[1]1919年には中国軍が侵攻してモンゴル人国家は一時的に崩壊し、外モンゴルは中華民国の統治下に入った。しかし、1920年赤軍との内戦を行っていたウンゲルン率いる白軍がモンゴルへ侵入して中国軍を駆逐、ボグド・ハーン政権を復興させた。その後、ウンゲルンの残虐な行動に人心が離反していく中、民族主義者社会主義者モンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)を結成し、独立国家樹立のためロシア帝国の後継国家であるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に援助を求めた。これに応じた赤軍および極東共和国軍はモンゴルに介入して白軍を駆逐し、1921年7月、ジェプツンダンバ・ホトクト8世を君主として戴くモンゴル人民政府が樹立された。この革命にはナヴァーンネレン中国語版といったモンゴル王公らも賛同した。新生モンゴルは立憲君主国として出発し、ソビエト連邦の強い影響下で国家運営が行われた。

1921年スフバートル政権を受け入れる

しかし、1924年にジェプツンダンバ・ホトクト8世が死去するとモンゴル人民政府は君主制を廃止し、政治体制人民共和国へと変更してモンゴル人民共和国が成立した。ソビエト連邦に次ぐ世界で2番目の社会主義国となったモンゴルは、その後ソビエト連邦と歩調を合わせ、その衛星国となった。

政府

ウランバートルの移動式仏教寺院(1913年)着色写真
ボグド・ハーンの玉璽

モンゴル人は2世紀にわたる清の統治を経て独立を回復し、チベット仏教神権政府を採用し、内務·外務·軍務·財務·法務の5省を設置した[2]1912年7月に首相職が設置され、モンゴル王公トグス・オチリン・ナムナンスレン英語版が任命された。

ボグド・ハーン政権はハルハ4部、ホブド参賛大臣の管轄下オイラト諸部、ダリガンガ牧場を支配した[2]。しかし、モンゴル政府による内蒙古とその他の地域の統一計画は、中華民国(袁世凱政権)ロシア帝国の反対を受けた。1915年に中国、ロシア、モンゴルの間で締結された条約により、ボグド・ハーン政権の統治地域は外モンゴルに限定された[3]

1921年の革命後、封建領主外藩)と仏教勢力は徐々に排除され、共産主義者が率いるモンゴル政府が樹立した[4]

1921年11月5日にロシア・モンゴル友好条約が締結された。その後、ロシアとモンゴルは正式に国交を樹立し、モンゴルは極東におけるソ連の重要な同盟国となった[5]

脚注

  1. ^ Baabar, Bat-Ėrdėniĭn Baabar, Christopher Kaplonski, Twentieth century Mongolia1 , White Horse Press, 1999, p.188.
  2. ^ a b 橘誠『ボグド・ハーン政権の研究 : 1911-1921』早稲田大学〈博士(文学) 甲第3081号〉、2010年。 NAID 500000513671https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/3227 
    橘誠『ボグド・ハーン政権の研究 : モンゴル建国史序説1911-1921』風間書房、2011年。ISBN 978-4759918427国立国会図書館書誌ID:000011140632 
  3. ^ 烏蘭塔娜「ボグド・ハーン政権成立時の東部内モンゴル人の動向 : バボージャヴを例として」『東北アジア研究』第12号、東北大学東北アジア研究センター、2008年3月、97-118頁、CRID 1050001202758986240hdl:10097/41137ISSN 1343-9332 
  4. ^ 青木雅浩『モンゴル近現代史研究:1921~1924年 : 外モンゴルとソヴィエト,コミンテルン』早稲田大学出版部〈早稲田大学学術叢書 ;13〉、2011年。ISBN 978-4-657-11705-2国立国会図書館書誌ID:000011168861 
  5. ^ 青木雅浩「ロシア・モンゴル友好条約締結交渉 におけるウリヤンハイ問題」『東洋學報』第89巻第4号、東洋文庫、2008年3月、503-526頁、ISSN 0386-9067 

関連研究

関連項目

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