1942年初頭、ペギーは全米チャートで初のTOP10ヒットとなる「誰かが邪魔した」(Somebody Else Is Taking My Place)を発表。続けて翌1943年には「Why Don't You Do Right?」をリリース。この曲は100万枚以上の売り上げを記録し、彼女の名を知らしめた。1943年に放映された2つの映画『Stage Door Canteen』と『The Powers Girl』では、ペギーはグッドマンと共に歌っている。
1943年3月、ペギーはグッドマン楽団のギタリストであったデイヴ・バーバーと結婚する。その後2人は楽団を脱退。デイヴがスタジオで働き、ペギーは音楽活動を休止して娘ニキの養育に専念していた。しかし彼女は1944年には創設間もないキャピトル・レコード所属として作曲および収録に復帰した。このレーベルで彼女は数多くのヒット曲を発表した(多くはペギーとデイヴによる作詞・作曲)。例えば「アイ・ドント・ノウ・イナフ・アバウト・ユー」(I Don't Know Enough About You)や「イッツ・ア・グッド・デイ」(It's a Good Day, 1946年)などが挙げられる。1948年のレコード年間売り上げ1位となるスマッシュ・ヒットを記録した「マニャーナ」(Mañana)のリリースにより、彼女の「隠退生活」は完全に終わりを告げた。
ペギーは1951年にデイヴと離婚。1950年代前半に数年間キャピトル・レコードを離れるが、1957年に復帰する。彼女は、リトル・ウィリー・ジョンのヒットソング「フィーバー」(Fever)や、ジェリー・リーバー&マイク・ストーラーの「イズ・ザット・オール・ゼア・イズ」(Is That All There Is?)のカバー・バージョンが最もよく知られている。彼女のキャピトル・レコードレーベルとの関係はほぼ30年間に及んだ。一方、デッカ・レコードと契約していた期間は短い(1952年 - 1956年)ものの、この間に最も評判の高かったアルバム『ブラック・コーヒー』(Black Coffee, 1956年)をリリースするなど、それは芸術的に豊かな時期であった。デッカ・レコードとの契約中に、ペギーは「ラヴァー」(Lover)や「ミスター・ワンダフル」(Mr. Wonderful)などのヒットソングをリリースした。