ヘンリー・アナトール・グランワルド(Henry Anatole Grunwald、1922年12月3日 - 2005年2月26日)は、オーストリア生まれのアメリカ合衆国のジャーナリスト、外交官である。『タイム』誌の編集長およびタイム社の編集主幹を務めたことで知られる。
キャリア
グランワルドは、オーストリア・ウィーンのユダヤ人家庭にハインツ・アナトール・グリューンヴァルト(Heinz Anatol Grünwald)として生まれた[1]。父のアルフレート(英語版)はリブレット(オペラ等の台本)作家で、フランツ・レハール、エメリッヒ・カールマン、オスカー・シュトラウスのためにオペレッタの台本を書いた。1938年のアンシュルスの後、一家はオーストリアからチェコスロバキアに渡り、その後パリに渡った。1940年、ビアリッツ、カサブランカ、リスボンを経てアメリカ合衆国に渡った。
劇作家を志していたグランワルドは、ニューヨーク大学在学中に『タイム』誌の雑用係となり、以降1987年までタイム社で編集の仕事を続けた。彼は、『タイム』誌の編集長(マネージング・エディター)を1968年から1977年までの11年間務めた後、『フォーチュン』『スポーツ・イラストレイテッド』『ピープル』『マネー』などのタイム社の全雑誌の編集主幹(エディター・イン・チーフ)を務めた。
彼は、『タイム』誌ではそれまで許されていなかった、署名(英語版)入りの記事を許可した最初の人物である。また彼は、行動、エネルギー、性、経済、ダンスなどの新しい部門を導入した[2]。彼は有名な(一部では悪名高い)表紙記事"Is God Dead?"(神は死んだのか?)の執筆を依頼した。彼はこの雑誌を共和党の党派性から遠ざけた。彼は個人的にリチャード・ニクソン大統領の辞任を求める社説を書いた。
編集長時代から編集主管時代を通して、彼は知的レベルの高い執筆を指示し、執筆された記事を知的な厳しさで評価した。彼は自分の雑誌が、現在の国家問題に対するモラリスティックな解決策を特定し、それを促進するのに役立つことを望んでいた[3]。
1962年には、J・D・サリンジャーに関するエッセイ集"Salinger, a Critical and Personal Portrait"(サリンジャー、批判的で個人的なポートレート)を編集し、序文を執筆した。この本には、ジョン・アップダイク、レスリー・フィードラー、ジョーン・ディディオンなどの過去に発表されたエッセイや、サリンジャーについての『タイム』誌の記事が掲載されている。
1987年には、ロナルド・レーガン大統領から祖国オーストリアの米国大使に任命され、1990年まで在任した[4][5]。
1998年9月5日、アメリカへの移住とその後の生活を綴った自伝"One Man's America: A Journalist's Search for the Heart of His Country"(ある男のアメリカ: ジャーナリストが求めた祖国の心)を発表した。また、2003年には小説"A Saint, More or Less"を執筆した。
2001年、オーストリア共和国科学文化勲章(英語版)第1等を授与された[6]。
晩年、彼は加齢黄斑変性のために徐々に視力を失っていった。そのことを1999年の著書"Twilight: Losing Sight, Gaining Insight"に書いている。このことから、視覚障害者に関する著名な非営利団体であるライトハウス・インターナショナル(英語版)との密接な関係を築くことになった。ライトハウスは毎年、社会全体、特に視覚障害者のために貢献した人に、「ヘンリー・A・グランワルド公共サービス賞」を授与している。グランワルドは、この賞の名前の由来であり、最初の受賞者でもある[7]。
2005年2月26日、ニューヨーク市で亡くなった[8]。
家族
1953年、グランワルドはベヴァリー・スーザー(Beverly Suser)と結婚した。2人の間には、脚本家のピーター・グランワルド(英語版)、民主党の政治コンサルタントのマンディ・グランワルド(英語版)、作家のリサ・グランワルド(英語版)の3人の子供がいた。ベヴァリーは1981年に乳がんで亡くなった。
1987年、元『ヴォーグ』誌編集者でマンハッタンの社交界で活躍していたルイーズ・メルハド(Louise Melhado)(旧姓リーバーマン(Liberman))と結婚した。彼女にとっては3度目の結婚だった[9]。
著書
以下に著書の一部を挙げる。
- "Salinger, a Critical and Personal Portrait" edited by Henry Anatole Grunwald. New York: Harper & Row, 1962.
- "One Man's America: A Journalist's Search for the Heart of His Country" New York: Doubleday, 1997
- "Foreign policy under Reagan II." Foreign Affairs 63.2 (1984): 219-239. Online
- "The post-Cold War press: A new world needs a new journalism." Foreign Affairs (1993): 12-16. Online
脚注
- ^ Reed, Christopher (March 2, 2005). “Henry Grunwald - Editor of Time who called for Nixon's resignation”. The Guardian. 2020年7月8日閲覧。 “He was born the son of a successful operetta librettist, Alfred Grunwald, in a non-practising Jewish family, and named Heinz (changed to Henry in America).”
- ^ Severo, Richard (February 27, 2005). “Henry A. Grunwald, Editor Who Directed Shift in Time Magazine, Is Dead at 82”. The New York Times. https://www.nytimes.com/2005/02/27/obituaries/27grunwald.html?_r=0 28 January 2013閲覧。
- ^ Walter Isaacson, American Sketches (2009) pp 231-35.
- ^ Schudel, Matt (February 27, 2005). “Henry Grunwald, Managing Editor of Time Magazine, Dies”. The Washington Post. https://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A56472-2005Feb26.html 28 January 2013閲覧。
- ^ Whitfield, Stephen J.. “The American Jew as Journalist”. PolicyArchive. 2020年7月8日閲覧。
- ^ “Reply to a parliamentary question” (pdf) (German). p. 1442. 5 January 2013閲覧。
- ^ http://www.lighthouse.org/events/henry-a-grunwald-award-for-public-service/#grunwald-2013 Archived 2013-02-05 at the Wayback Machine.
- ^ Schudel, Matt (February 27, 2005). “Henry Grunwald, Managing Editor of Time Magazine, Dies”. The Washington Post. https://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A56472-2005Feb26.html 28 January 2013閲覧。
- ^ “Louise Melhado Is Married To Henry Anatole Grunwald”. The New York Times, Published: May 2, 1987. 24 March 2016閲覧。
外部リンク