プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ(ラテン語: Publius Cornelius Scipio Nasica Serapio、- 紀元前111年)は、紀元前2世紀後期の共和政ローマの政治家。紀元前111年に執政官(コンスル)を務めた。
ローマ筆頭の名門パトリキ(貴族)の一つであるコルネリウス氏族のスキピオ家に生まれる。父は紀元前138年の執政官で、同名のプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオで、最高神祇官も務めた。しかし、従兄弟で護民官であったガイウス・センプロニウス・グラックスとその支持者の虐殺の首謀者としての方が有名である。母方をたどると、スキピオ・アフリカヌスの子孫に当たる[1]。
なお、スキピオ・ナシカ・セラピオというコグノーメン(家族名)を使っているのは、大プリニウスの『博物誌』と『イースター・クロニクル』二つの資料だけで[2][3]。カピトリヌスのファスティではスキピオ・ナシカとなっている[4]。
スキピオ・ナシカの早期の経歴は不明だが、ウィッリウス法の要求事項から逆算すると、遅くとも紀元前114年にはプラエトル(法務官)を務めたはずである[5]。
紀元前111年、スキピオ・ナシカは執政官に就任する。同僚はプレブスのルキウス・カルプルニウス・ベスティアであった[4][6]。前年にユグルタ戦争が始まっており、くじ引きの結果ベスティアが出征することとなり、スキピオ・ナシカはイタリアに留まった。しかし執政官任期満了前にスキピオ・ナシカは死去した。彼のための厳粛な葬儀が行われた[3]。補充執政官は選出されていない[4]。
スキピオ・ナシカの業績は何も伝わっていないが、当時の人には好まれていたようである[3]。キケロは、父とは異なり「話術に長けており」、権力を持っていたにもかかわらず「常識的であった」と記している[7]。このようであったため、あまり多く演説をしなかったし回数も多くなかったが、純粋なラテン語を話す点では誰にも負けなかったし、洒落や機知は誰にも優っていた[8]。シケリアのディオドロスは彼の無謬性、公務への積極的な参加、そして言葉だけでなく行いにおいても「知恵への献身」について書いている[9]。大プリニウスはスキピオ・ナシカが庶民に非常に愛されていたと書いている[10]。
スキピオ・ナシカはクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスの娘と結婚した。二人の間には息子プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカが生まれたが、紀元前90年代に法務官をと止めている。その息子がクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカは、ポンペイウス・マグヌスの義理の父である[11]。