当時そこで働いていたスタッフによると、小さく、働くには居心地の悪い場所であった。「ブラック・マリア」の名をつけたのは、エジソンの下で働いていたW・K・ディクソンとジョナサン・キャンベル (Jonathan Campbell)であった。このスタジオが窮屈で、ぎゅうぎゅう詰めになり、また同じような黒い色をしていたことから、警察の護送馬車(アメリカ英俗語で Black Maria)を思わせたことによる。
歴史
ブラック・マリアは、シネマトグラフィック・シアター (cinematographic Theater) とも称され、キネトスコープ用のフィルムを制作する目的で、ニュージャージー州ウェストオレンジのエジソンの研究施設の敷地の一角に完成した。タールを染み込ませた紙で覆われたスタジオの空間に、開閉可能な屋根が付けられた、この建物の建設は、1892年12月に始まり[3]、翌年完成するまで総費用は $637.67(2020年の$17,782に相当)がかかった。1893年5月はじめ、エジソンはブルックリン芸術・科学院(the Brooklyn Institute of Arts and Sciences:ブルックリン美術館の前身)において、キネトスコープを用い、ブラック・マリアでキネトグラフにより撮映したフィルムの再生を、世界で初めて公開実演した。披露された映画は、3人の男たちが鍛冶屋を演じたものであった。
ブラック・マリアで制作された最初の映画作品群は、W・K・ディクソンにより1893年8月に議会図書館に著作権登録された。1894年1月はじめには、『The Edison Kinetoscopic Record of a Sneeze (aka Fred Ott's Sneeze)』など、一連の短編作品が、エジソンのブラック・マリアにおいてキネトスコープ用にディクソンによって制作され、同僚の助手フレッド・オットがこれを手助けした。この『フレッド・オットのくしゃみ』は、広報目的に制作されたものであり、『Harper's Weekly』誌に一連のスチル写真と記事が掲載された。この短編映画は、オットがカメラに向かってコミカルにくしゃみをしてみせるもので、著作権登録された最初の映画作品となった。
Robinson, David (1997). From Peepshow to Palace: The Birth of American Film. New York and Chichester, West Sussex: Columbia University Press. ISBN0-231-10338-7