ビハール・ネパール地震 (ビハール・ネパールじしん, 英 : Bihar-Nepar earthquake )[ 1] [ 2] [ 3] は、1934年 1月15日 午後2時13分(現地時間)、インド [ 4] との国境 に近いネパール [ 5] 東部で発生したマグニチュード 8.1の地震 である[ 6] 。
震源 の位置は長らくGutenburg & Richter(1954)の推定により平野部(ヒンドスタン平野 )の北端付近と伝えられていたが、後年の調査により正しい震源は従来の約200km北側のヒマラヤ山脈 の山腹であることが分かった。堆積盆地 であるガンジス川 流域で地震動 が増幅されたこと、地震計 がインド側に偏っていたことが原因であった[ 6] 。
被害
被災地を訪れたマハトマ・ガンディー 。1934年、ビハール州。
インド・ビハール州 [ 7] 北部やネパールに甚大な被害をもたらした。死者・行方不明者はDunn et al.(1934)によると約10,500人とされているが、当時ネパールは外国人の入国を禁じる「鎖国 」政策を採っていたため、ネパールでの正確な死者は分かっていない。インド側では、Brett(1935)がビハール州での死者を7253人と報告している[ 6] 。
ビハール州のKesaria の町にある"Kesariya Stupa"という仏塔 は、この地震により35mあったものが崩れて6mになったと伝えられている[ 6] 。
カトマンズ では、建造物の半数以上が全半壊し、ダルバール広場 の歴史的な建物も倒壊した[ 8] 。カトマンズ盆地 における被害について、当時の文献は、建物の倒壊により大量の粉塵 が舞い上がり昼間でも薄暗かったこと、狭い道路が避難の障碍になったこと、数千の人々が建物の下敷きとなり死亡したこと、一部で火災 が発生したが局所的ですぐに鎮火したこと、などを記録している[ 9] 。カトマンズ盆地では、建築物の約20%が破壊され、9040人の死者を出した、との統計もある[ 10] 。
日本 国内各方面で義援金 が募られ送付された[ 11] 。
脚注