ヘンリー・ジョン・パッチ(英: Henry John Patch、1898年6月17日 - 2009年7月25日[1])は、イギリスの元軍人、スーパーセンテナリアン。第一次世界大戦で戦った最後の生存者で[2]、111年38日生きた長寿者としてラスト・トミー(Last Tommy)という名前でも知られている。存命中にはウォルター・ブルーニングと木村次郎右衛門に次いで3番目に長寿の男性であった。
生後
1898年6月17日、サマセット近くのカン・ダウンに生まれる。1901年3月31日の国勢調査で父のウィリアム(1863年-1945年)、母のエリザベス(1857年-1951年)、兄のジョージ(1888年-1983年)、ウィリアム(1894年-1981年)のもとに2歳と登録されているのがその裏付けである[3][4]。また1911年の国勢調査でも同じ地域に住んでいた[5]。
彼の家族は長寿な人物が多く、家族で最年長の兄ジョージは95歳まで生き、それ以外も死去時には全員が80歳を超えていた。
彼らの兄はそれぞれ大工と銀行員になり、ハリー自身は1913年に学校を卒業した後に見習いの配管工になった[6]。
第一次世界大戦中
1916年にトーントンでの任務を終えたのち、二等兵としてイギリス陸軍に徴兵された。1916年から17年の冬に兵長に昇進したものの、彼のブーツを取った兵士との喧嘩の末に降格され、それ以降昇進することはなかった。その後に歩兵連隊での訓練を終えた後、ロイヤル・ウォリックシャー連隊などにファイルを添付したのち、ルイス軽機関銃を使用する砲手の助手を務めた。
1917年の6月にフランスに到着し、パッシェンデールの戦いの時に西部戦線で戦闘していた[7]。同年9月22日に砲弾が頭上で爆発したことにより、3人の仲間が死亡した。その後前線から外され、12月23日に帰国した。ドイツとの休戦協定が行われたときにはワイト島にいた[8]。
当時のことを彼はこう語っている。
戦争が終わった時、自分の国が勝利したことを安心して良かったのか、もう戻る必要がないのかどうかがわからなかった。パッシェンデールは悲惨な戦いで、何千人もの若い命を失った。私はこれに怒っている。今年の初め、第一次世界大戦を生き残ったドイツのセンテナリアン、
チャールズ・クエンツに会いに行った。彼は107歳。我々は戦争が何かを考えるために87年間過ごしていた。私は、外出し殺人できるライセンスと考えている。なぜ政府は私を招集し、私の話せない言語を習得している男を撃つために戦場に行かせるのだろうか?戦争で失われた命はテーブルの上に終結した。今、その意味は何だろうか?
— ハリー・パッチ
勲章
パッチは合計8つの勲章を獲得した。まず第一次世界大戦の功績から、イギリス戦争勲章、勝利勲章を獲得した[9]。1998年にはフランスでの戦争で生き残ったことから、レジオンドヌール勲章に認定された[10]。賞は彼の101歳の誕生日の日に授与された。2008年1月7日、アルベール2世からレオポルド勲章を授与された。同年9月にオランダの大使公邸で行われた式典で、駐英大使から賞を授与された[11]。
第二次世界大戦の功績からも、防衛勲章をイギリスから授与された。その後勲章は消えてしまったが、9月20日に消防署で行われた式典で交換勲章を授与された[12]。ほかにも国家奉仕勲章、オース・ド・コンバット勲章を授与された。これらは彼の意向により、ボドミンの博物館に展示されている[13]。
戦後
戦後は配管工の仕事に復帰し、ウィルス記念館で4年間勤務したのち、配管会社の支店長になった。その後1年間ベデカー爆撃に対処する非常勤の消防士になった。戦時中にサマセットのストリートに移住し、65歳で退職するまで会社を経営していた[7]。
1919年9月13日にエイダ・ビリントン(1891年-1976年)と結婚。2人の子供を設ける。エイダは1976年に重度の脳卒中を負い9月20日に死去した。
1982年6月5日にキャスリーン・ジョイ(1901年-1989年)と再婚。キャスリーンは1989年3月18日に乳がんで死去した。
ハリーの長男デニスは母親の死に深刻な影響を受け、飲酒を行うようになった。1987年に肝硬変により死去した。デニスの死去後はもう一人の息子のゴーデンとは疎遠になり、最後の20年間は話すこともなかった。ゴーデンは2002年に癌で死去した。
100歳の頃に老人ホームに移住し、同じく未亡人のドリス・ウィテカーを見つける。
2005年12月16日、ブリストル大学から名誉修士号の称号を授与される。ハリーは1920年代にこの建物の建設に関わっていた[14]。ジョージ5世が開設したタワーの建設に関わったことが主な理由だという[15]。
またこれにより、107歳182日で「名誉学位を取得した最高齢の人物」としてギネス世界記録に認定された[16]。
死去
2009年7月25日午前9時、ウェルズで死去。111歳38日没。その7日前には、第一次世界大戦に参加した2番目の生存者であるヘンリー・アリンガムが死去していた。
葬儀
ハリーの葬儀は8月6日にウェルズ大聖堂にて行われた[17][18]。ウェルズ大聖堂の鐘は彼の生きた年数を記念し、111回鳴らされた。彼の棺にはベルギー、ドイツ、フランスの各軍から2人の民間兵士が同行した[18]。
ハリーの生前の意向から、葬儀で銃を持つことは許可されず、兵隊の兵士でさえも武器を何一つ持っていなかった。
この葬儀はテレビやラジオで報道され、それに対する国民の関心から、1050枚のチケットが利用できた[19]。一部の人は敬意を払いたく思い、大聖堂の草の上で一晩寝たとされる。
葬儀はジョン・クラーク、ピーター・モーリスらにより行われた。
脚注