ハリー・A・ポラード(Harry A. Pollard, 1879年1月23日 - 1934年7月6日)は、アメリカ合衆国の映画監督、俳優、映画プロデューサー、脚本家である[1]。ハリー・ポラード(Harry Pollard)ともクレジットされ[1]、日本でも当初そのように紹介されもした[2]。ニックネームはボシトロン(Beaucitron, 「美しいレモン」の意)[1]。
人物・来歴
1879年(明治12年)1月23日、カンザス州リパブリック郡リパブリックに生まれる[1]。
セリグ・ポリスコープ・カンパニーに入社、1910年(明治43年)にはアメリカン・フィルム・マニュファクチャリング・カンパニー製作、フランク・ビール監督の短篇コメディ映画 Two Lucky Jims でマーガリータ・フィッシャーと共演したのが現在残る最初の出演記録である[1]。1911年(明治44年)7月9日、7歳年少のフィッシャーと結婚する[3]。
インディペンデント・ムーヴィング・ピクチャーズ製作、1912年(明治45年)6月10日に公開されたフィッシャーとの共演作 Nothing Shall Be Hidden で監督業に進出する[1]。1916年(大正5年)、自らの「ハリー・ポラード・プロダクションズ」で製作した監督作『楽園の名花』に出演したのを最後に俳優業を廃業、監督業に専念する[1]。同プロダクションでは、同作をはじめ、フィッシャーを主役に『島の篝火』、 The Butterfly Girl (監督ヘンリー・オットー)、『処女の誇』(1918年)を製作する[4]。
1918年(大正7年)、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)の子会社・ブルーバード映画で、エラ・ホール主演のサイレント映画『下界の精』をトッド・ブラウニングと共同監督[1]、同作は日本でも公開されている[5]。1922年(大正11年)に同社が製作したレジナルド・デニー主演の『拳闘王』とそのシリーズを6作まで監督する[1]。1929年(昭和4年)に監督したマッジ・ベラミー主演作『今夜12時』を最後にユニヴァーサルを去る[1]。
1930年(昭和5年)、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーに移籍、第1作はハリー・ボーモントと共同で監督したジョーン・クロフォード主演作 Great Day である(未完成)[1]。トーキー以降も監督業をつづけ、1932年(昭和7年)に監督したウィリアム・ヘインズ主演の『快走艇』を最後に監督業から退いた[1]。
1934年(昭和9年)7月6日、カリフォルニア州ロサンゼルス郡パサデナで死去した[1]。満55歳没。同州のグレンデールのフォレスト・ローン・メモリアル・パークに眠る[6]。
1975年(昭和50年)の妻フィッシャーの没後の1981年(昭和56年)、かつてサイレント時代に子役であった姪のキャシー・フィッシャーが、ポラード=フィッシャー夫妻のサイレント映画に関する遺品をカンザス州のウィチタ州立大学に寄贈、同大学図書館の特別コレクションとして収蔵された[3]。
おもなフィルモグラフィ
関連事項
註
外部リンク