ノーマン・ジェシー・ホィットフィールド (Norman Jesse Whitfield、1940年 5月12日 – 2008年 9月16日) はアメリカ合衆国のソングライター 兼レコード・プロデューサー 。
1960年代のモータウン における諸作品により広く知られる[1] 。モータウン・サウンドの創造者の一人であり、1960年代 末期のサイケデリック・ソウル の発展に寄与した[1] 。25年のキャリアにおいて、さまざまなモータウン・アーティストのために不滅のヒットを制作した。
代表作は
テンプテーションズ 『Ain't Too Proud to Beg』『(I Know) I'm Losing You』『Cloud Nine』『I Can't Get Next to You』『Ball of Confusion (That's What the World Is Today)』『Just My Imagination (Running Away with Me)』『Papa Was a Rollin' Stone』
マーヴィン・ゲイ 『悲しいうわさ (I Heard It Through the Grapevine)』、
エドウィン・スター の『黒い戦争 (War)』、
The Undisputed Truth『Smiling Faces Sometimes』
など。
特にテンプテーションズ のプロジェクトに多くかかわり、1969年から1973年までの彼らの8枚のアルバムを単独プロデュースした。彼は1975年 に自身のレーベル「ホィットフィールド・レコード」を創設し、ローズ・ロイスのヒット『Car Wash』を生み出した。
彼はモータウン時代の作詞協力者バレット・ストロング とともに2004年にソングライターの殿堂入りした[2] 。
2024年4月21日には、米国・Rock & Roll Hall Of Fameより、2024年度『ロックの殿堂 ミュージカル・エクセレンス・アワード』に選出された[3] 。
生涯
少年時代とキャリア
ハーレム 出身で、10代の大半をビリアード 場で過ごす。10代後半になると、家族とミシガン州 デトロイト に引っ越し、父は、妹の夫が所有するドラッグストア「バースウェル・ドラッグス」のチェーン店で働き始めた。ミシガン州の北西高校に編入。
1959年、19歳になるとモータウン のヒッツヴィルUSA 事務所に何度も訪れ、仕事を求めた。当時モータウンは成長期だった。モータウン創立者ベリー・ゴーディー は彼の熱意を認め、彼を「品質管理部門」担当にした。そこでは歌を発売するかどうかが決められていた。その後モータウンの社内作曲スタッフとなる。
初期の作品はある程度成功を収めた。
マーヴィン・ゲイ 『Pride and Joy』、
マーヴェレッツ 『Too Many Fish in the Sea』、
ヴェルヴェレッツ『Needle in a Haystack』。
モータウン内部で確固たる地位を築いたのはプロデュースを始めた時。1966年(26歳)にスモーキー・ロビンソン に代わってテンプテーションズ のメイン・プロデューサーとなった。それは、1966年に彼の『Ain't Too Proud to Beg』がロビンソンの『Get Ready』よりもポップチャートで好成績を収めた直後のことだった。
ザ・テンプテーションズ
1971年のテンプス
1966年から1974年までテンプテーションズのすべての作品を制作。SE [要曖昧さ回避 ] などの実験を繰り広げた。[1] モータウン初のヒット曲でビートルズ がカバーした『Money (That's What I Want』を歌っていたバレット・ストロング をパートナーとし、テンプテーションズ やマーヴィン・ゲイ 、グラディス・ナイト ・アンド・ザ・ピップスなどに曲を書いた。
マーヴィンとグラディスは『悲しいうわさ 』を別々にヒットさせた。グラディスのヴァージョン(1968年)はモータウン史上最大のヒットだったが、一年後のマーヴィンのヴァージョンはそれを越えた。
1968年にテンプテーションズ のリード・シンガーがデヴィッド・ラフィン からデニス・エドワーズ に代わると、グループのサウンドをより激しく暗いものにした。それはスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーン やファンカデリック のサウンドを取り込んだ、サイケデリック・ロック とファンク の融合であった。 [4]
彼はまた歌の主題 を変えた。ラブソング から当時の社会問題 (戦争 ・貧困 ・政治 )へ。テンプテーションズの新しいサイケデリック ・ソウルが初めにあらわれたのは1968年後半の曲『クラウド・ナイン』だった。それはモータウンにとって最初のグラミー 受賞曲となり、「デュオまたはグループのヴォーカルによるベスト・ R&Bパフォーマンス」を獲得した。
彼とテンプテーションズにとって二度目のグラミー受賞曲は1973年のシングル『Papa Was a Rollin' Stone』だった。このシングルのB面のインストゥルメンタル 曲によりホィットフィールドは、アレンジャー のポール・ライザーとともに「ベストR&Bインストゥルメンタル・パフォーマンス賞」を獲得し、バレット・ストロング とともにBest R&B Song賞を獲得した。
「サイケデリック・ソウル」、モータウンとの決裂
テンプテーションズ 、エドウィン・スター 、The Undisputed Truthなどのサイケデリック・ソウルは1960年代後半のモータウン・サウンドをアップデートした。[1] 曲の長さ・ギターのディストーション ・ドラムスの多重録音 ・ヴォーカル・アレンジの工夫などは彼の制作、また彼が指導したモータウンの後進たちのトレードマーク になった。弟子の中にはフランク・ウィルソン がいる。
しかし、ホィットフィールドとテンプテーションズの間の摩擦と対立 が顕在化しはじめた。グループがいやがったのは、ホィットフィールドが楽器編成にばかりこだわってヴォーカルを軽んじるようになったことと、ロマンティックなバラードをほとんど作らなくなったことであった。
ホィットフィールド・レコード(Whitfield Records)と後半生
1973年 (33歳)、モータウンを去り、自身のレーベル「ホィットフィールド・レコード」を創設。
最初のリリースは、モータウンから引き抜いたThe Undisputed Truthだった。その後ローズ・ロイス、ウィリー・ハッチ、Nytro、Mammatapee、ジュニア・ウォーカーと続く。[1]
1976年にはローズ・ロイスのシングル『Car Wash』がスマッシュ・ヒットとなる。かつてモータウン時代にエドウィン・スター のバック・バンドであったローズ・ロイスはさらに3枚のアルバムを作ったが、『Car Wash』の成功を超えることはなかった。この曲は1976年 の映画『Car Wash』の主題歌 となり、サントラを担当したホィットフィールドは1977年にグラミー賞 「映画スコア」賞を受賞。[1]
また1977年の映画『Which Way Is Up?』の主題歌(Stargardというバンドにより歌われた)も担当した。
1980年代初頭に古巣のモータウンに復帰し、テンプテーションズ1983年のヒット・シングル『Sail Away』や映画『The Last Dragon』のサントラを制作した。[1]
2005年1月18日、彼は1995年から1999年までの印税 収入に関する納税漏れを指摘され、有罪となった。200万ドル(2億円)の脱税 容疑で、半年の自宅拘束、2万5000ドル(250万円)の追徴課税 が言い渡された。健康問題で刑務所 には入らずに済んだ。
最期の数か月、ロサンゼルス のツィダース・シナイ病院に入院していた。糖尿病 などの治療を受けていた。彼はいったん昏睡 状態になり、短期間回復したが、糖尿病の合併症 で亡くなった。[2]
彼は2008年9月16日午後3時半に亡くなった。
ディスコグラフィー
主なプロデュース作品
1963: "Pride & Joy " – マーヴィン・ゲイ
1964: "Too Many Fish in the Sea " – The Marvelettes
1964: "Needle in a Haystack " – The Velvelettes
1964: "He Was Really Sayin' Somethin' " – The Velvelettes
1964: "Girl (Why You Wanna Make Me Blue) " – テンプテーションズ (US #26)
1966: "Ain't Too Proud to Beg " – テンプテーションズ(US #13, UK #21)
1966: "Beauty Is Only Skin Deep " –テンプテーションズ (US #3, UK #18)
1966: "(I Know) I'm Losing You " –テンプテーションズ(US#8, UK #19)
1967: 悲しい噂 "en:I Heard It Through the Grapevine " – グラディス・ナイト・アンド・ザ・ピップス (US#2)、マービン・ゲイ版およびCreedence Clearwater Revival も存在する。
1967: "You're My Everything " – テンプテーションズ (US #6, UK #26)
1967: "I Wish It Would Rain " – テンプテーションズ (US #4)
1968: "I Could Never Love Another (After Loving You) " – –テンプテーションズ(US #13)
1968: "The End of Our Road " – Gladys Knight & The Pips
1968: "Cloud Nine " – テンプテーションズ (US #6, UK #15)
1969: "Friendship Train " –グラディス・ナイト・アンド・ザ・ピップス
1969: "Runaway Child, Running Wild " – テンプテーションズ (US #6)
1969: "Too Busy Thinking About My Baby " – マーヴィン・ゲイ
1969: "I Can't Get Next to You " – テンプテーションズ (US #1, UK #13)
1969: "Don't Let The Joneses Get You Down " – –テンプテーションズ (US #20)
1970: "You Need Love Like I Do (Don't You) " – グラディス・ナイト・アンド・ザ・ピップス , テンプテーションズ版も存在する。
1970: "Psychedelic Shack " – テンプテーションズ (US #7, UK #33)
1970: "Hum Along and Dance " ––テンプテーションズ ( Rare Earth や ジャクソン5 が後にカバー)
1970: "Ball of Confusion (That's What the World Is Today) " – テンプテーションズ (US #3, UK #7)
1970: 黒い戦争 "War " – エドウィン・スター (US #1, UK #3)
1971: "Smiling Faces Sometimes " – The Undisputed Truth (原曲は–テンプテーションズ)
1971: "Just My Imagination (Running Away with Me) " – –テンプテーションズ(US #1, UK #8)
1972: "Papa Was a Rollin' Stone " -テンプテーションズ , (US #1, UK #, 原曲は The Undisputed Truth)
1973: "Masterpiece " –テンプテーションズ (US #7)
1973: "Let Your Hair Down " – –テンプテーションズ(US #27)
1976: "Car Wash " – ローズ・ロイス (US #1, UK #9)
1976: "I'm Going Down " – ローズ・ロイス
1976: "I Wanna Get Next to You " – ローズ・ロイス(US #10)
1977: "Ooh Boy " –ローズ・ロイス
1977: "Wishing on a Star " –ローズ・ロイス (UK #3)
1978: "Love Don't Live Here Anymore " – Rローズ・ロイス (US #32, UK #2,のちに ジミー・ネイル (英語版 ) がカバーし、ネイル版は全英チャート3位にランクインした)
参照