娘時代のナーズリーと父アブドゥル=ラヒーム
王妃としての戴冠式当日のナーズリー、1922年
ナーズリー・サブリー (亜剌 : نازلى صبرى;ラテン文字転写 :Nazli Abdel Rehim Sabri, 1894年 6月25日 アレクサンドリア - 1978年 5月29日 ロサンゼルス )は、エジプト 王フアード1世 の2番目の妻。エジプトのスルタナ(在位:1919年 - 1922年)[1] [2] 、王妃(在位:1922年 - 1936年)。
生涯
エジプト農業大臣を務めたアブドゥル=ラヒーム・サブリー・パシャ(Abdu'r-Rahim Sabri Pasha)とその妻のタウフィーカ・ハーヌム・シャリーフ(Tawfika Khanum Sharif)の間の娘として生まれた。母方の祖父はトルコ 出身でエジプト宰相・外相・陸軍少将を務めたムハンマド・シャリーフ・パシャ (Muhammad Sharif Pasha )[3] 、母方の曽祖父はフランス 出身の士官でエジプト軍の近代化に尽力したスレイマン・パシャ (Suleiman Pasha al-Faransawî )である。カイロ のラ・メール・ド・デュ校(Lycée de la Mère de Dieu)やアレクサンドリア のノートルダム・ド・シオン校(Notre Dame de Sion)で学んだあと、姉妹とともに2年間パリ に留学した。
1918年に父方の従兄でトルコ人のハリール・サブリ(Khalil Sabri)と最初の結婚をした。この結婚は強制的なもので、結婚からわずか11カ月後、ナーズリーは夫の不品行を理由に強引に離婚した。離婚後、ナーズリーは政治家のサアド・ザグルール 夫妻の屋敷に1か月ほど預けられた際、ザグルールの甥サイードと恋仲になり、婚約した。しかし1919年のエジプト革命 に際してサイードは叔父ザグルールとともに亡命を余儀なくされ、婚約も空手形となった。
失恋からまもなく、ナーズリーはスルタン・フアード1世 に目を付けられ、スルタンの妃となることを承諾させられた。2人は1919年5月26日にカイロのブスタンサライで結婚式を挙げた(お互い再婚同士の夫婦だった)。フアードが1922年に国王(Misr al-Malik)として戴冠した際、ナーズリーの称号もスルタナ(Sultana)から王妃(Misr al-Malika)に変更された。
王妃は王宮内に限り、オペラ鑑賞や観花会などの行事に出席することを許されていた。フアード1世は強圧的な夫で、夫婦仲は険悪だった。王妃は夫君からたびたび平手打ちを受けたり、数週間の自室内謹慎を言い渡されたりした。1927年に夫とともに4か月間のヨーロッパ訪問に赴いた際、ナーズリーはフランス人の血筋を引くということで、かつての留学先フランス で大いに歓迎された。
1936年にフアード1世が死ぬと、国王夫妻の一人息子ファールーク1世 が王位を継承した。王太后ナーズリーの兄シェリーフ・サブリー・パシャ(Sherif Sabri Pasha)が、ファールークが未成年のあいだ国政を代行する3人の摂政の1人に選ばれている。1942年、ナーズリーは息子の家庭教師で探検家のアフマド・ハッサネイン (Ahmed Hassanein )と秘密結婚したと言われている[4] 。ファールーク1世はこのことで母を憎み、1946年にナーズリーはエジプトを追われてアメリカ合衆国 に移住した。
1950年8月8日、ファールーク1世は母后のエジプト王室の成員としての称号を剥奪することを発表した[5] 。理由はファールーク1世の許しを得ずに末娘のファトヒーヤ 王女を自分の秘書と結婚させたこと、そして同年にスンニ派 ムスリム からカトリック に改宗してキリスト教徒 となり、メアリー・エリザベス (Mary Elizabeth)の洗礼名を名乗ったことの2つである[6] 。
1976年、ナーズリーは自分と末娘ファトヒーヤのエジプト帰国許可を、エジプト大統領アンワル・アッ=サーダート に申請した。しかしファトヒーヤが夫に射殺される事件が起きたため、帰国は取りやめになった。1978年にロサンゼルス で死去した。
子女
2番目の夫フアード1世との間に1男4女の5人の子女をもうけた。
ファールーク1世 (1920年 - 1965年) - エジプト王
ファウズィーヤ (1921年 - 2013年) - イラン皇帝モハンマド・レザー の最初の妃
ファーイザ(1923年 - 1994年)
ファーイカ(1926年 - 1983年) - エジプト赤新月社総裁
ファトヒーヤ (1930年 - 1976年) - 母の秘書リヤード・ガーリ(Riyad Ghali)と結婚
参考文献
Montgomery-Massingberd, Hugh, ed (1980). “The Royal House of Egypt”. Burke's Royal Families of the World . Volume II: Africa & the Middle East . London: Burke's Peerage. pp. 20–37. ISBN 9780850110296 . OCLC 18496936
脚注
^ Rizk, Yunan Labib (13 – 19 April 2006). “A palace wedding” . Al-Ahram Weekly (790). http://weekly.ahram.org.eg/2006/790/chrncls.htm 2010年2月27日 閲覧 . "... Britain granted the rulers among the family the title of sultan, a naming that was also applied to their wives."
^ “الملك فؤاد الأول أول أمير مصري يتزوج من الشعب وعلى منواله نسج الملك فاروق الأول [King Fuad I, the First Egyptian Prince to Marry a Commoner, and King Farouk I Follows in His Footsteps]” (Arabic) (Reprint). Al-Sabah : p. 29. (20 January 1938). http://modernegypt.bibalex.org/DocumentViewer/TextViewer.aspx?w=1344&h=646&type=press&id=1976&s=1 2010年3月6日 閲覧。 .
^ Goldschmidt, Arthur (2000). Biographical dictionary of modern Egypt . Lynne Rienner Publishers. p. 191. ISBN 1555872298
^ Introduction by Michael Haag to The Lost Oases by Ahmed Hassanein, The American University in Cairo Press, Cairo and New York, 2006
^ “King Farouk Strips Queen Nazli of Title” . Daily Record (Ellensburg, WA) 41 (29): p. 4. (8 August 1950). https://news.google.com/newspapers?id=MWkKAAAAIBAJ&sjid=h0oDAAAAIBAJ&pg=4089,5096250 2010年3月7日 閲覧。 .
^ Hugh Montgomery-Massingberd, Burke's Royal Families of the World: Africa & the Middle East , Burke's Peerage, 1980, p. 36.
外部リンク
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