その後ミラノ、トリノ、パルマ、ローマ、ヴェネツィアなどのイタリア各地で活動した[5]。1782年にミラノで上演されたジュゼッペ・サルティのオペラ『漁夫の利(Fra i due litiganti il terzo gode )』のドリーナ役はナンシーが演ずることを想定して書かれた最初の曲だった[5]。
1784年3月にナンシーはイギリス人のヴァイオリスト・作曲家で40歳のジョン・フィッシャー (John Abraham Fisher) と結婚したが、夫が暴力をふるったためにヨーゼフ2世が介入し、フィッシャーはウィーンから追放された[5][3][4]。翌1785年1月にナンシーは出産したが、子は数ヶ月で死亡した[5][4]。ナンシー本人もこのころ調子を持ちくずした[3]。
兄のスティーヴンは当時ロンドンに戻っていたが、ウィーンから依頼されて『不満な夫婦 (Gli sposi malcontenti)』(1785年)および『誤解 Gli equivoci』(1786年)の2作のオペラを作曲した[2]。しかし1785年6月1日の『不満な夫婦』の初演時にナンシーは声が出なくなり、公演は中止になった[2][3]。9月にナンシーが復帰したとき、サリエリ、モーツァルト、およびコルネッティなる人物によって『オフェーリアの健康回復に寄せて』が作曲された[3][7][8]。
1787年4月24日にヘイマーケット国王劇場でパイジエッロ『愛の奴隷 (Gli schiavi per amore)』を歌った。1789年に国王劇場が焼失するとドルリーレーン劇場(英語版)に移り、兄の作曲による英語オペラに出演した[2]。しかし1796年に兄が急死するとドルリーレーンを離れ、短期間国王劇場に戻った[5]。
Gidwitz, Patricia Lewy; Matthews, Betty (2001). “Storace, Nancy”. The New Grove Dictionary of Music and Musicians. 24 (2nd ed.). Macmillan Publishers. pp. 441-442. ISBN1561592390