ナサール・アル=アティヤ 個人情報 生誕名 ناصر بن صالح العطية フルネーム nāṣir ṣāliḥ nāṣir ʿabdullāh al-ʿaṭṭīyah 生誕 (1970-12-21 ) 1970年 12月21日 (54歳) カタール ドーハ 身長 1.75 m (5 ft 9 in)[ 1] ウェブサイト 公式ウェブサイト
スポーツ 国 カタール 競技
ナサール・アル=アティヤ (アラビア語 : ناصر بن صالح العطية ナーセル・ビン・サーリフ・アル=アティーヤ、英: Nasser Salih Nasser Abdullah Al-Attiyah ナッサー・アルアティヤ、1970年 12月21日 - )は、カタール 出身のレーシングドライバー および射撃 選手。世界的なラリードライバー の1人であり、ダカール・ラリー では5度の総合優勝(2023年時点)がある。またW2RC(世界ラリーレイド選手権 )初代チャンピオン、WRC-2(世界ラリー選手権 の直下カテゴリ)2年連続チャンピオンの実績も持つ。
レーシングドライバーとして
ラリーレイド
2011年カタール国際バハにて、メルセデス・ベンツ・Mクラス (W164)をドライブ
1987年に地元のクロスカントリーラリーでナビゲーターとしてモータースポーツデビュー。総合3位で完走するもナビの面白さを感じられず、以降はドライバーに転身。日産・パトロール を改造したマシンで1990~1995年のカタール国内選手権で一度も負けずに連続チャンピオンという金字塔を打ち立てた。しかし彼を支援していた国が、アル=アティヤのライバルの一家を支援するように方針を切り替えたため資金難に陥り、一旦活動を停止した。
2004年に競技に復帰。ドイツ人のマルク・バルトロメをナビとして三菱・パジェロ のスーパープロダクション仕様でパリ・ダカールラリー にデビューし、総合10位で完走。2007年にはBMW のワークス格であるX-raid と契約し、フランス人で元日産ワークスのアラン・ジェネックをナビとして参戦して6位に入った。2008年には女性ナビのティナ・ターナー と組んでFIAクロスカントリーラリー・ワールドカップ でチャンピオンを獲得した。
2011年ダカール。フォルクスワーゲン・レーストゥアレグをドライブ。
2010年 にフォルクスワーゲン (VW)に移籍しドイツ人のティモ・ゴットシャルクをナビとする。四輪部門で同チームから参戦するカルロス・サインツ に次ぐ総合2位に食い込んだ。2011年 は引き続きVWから参戦し、ついにサインツを下して念願の初総合優勝を飾った。それまでの「マシン・スマッシャー(車両粉砕者)」という不名誉なあだ名を返上した[ 3] 。
2011年限りでVWがダカール・ラリーから撤退し、ゴットシャルクもIRC へ転戦したため、2012年 は元NASCAR ドライバーで北米オフロードレースの英雄ロビー・ゴードン のチームから、スペイン人ナビのルーカス・クルツと組んで二輪駆動バギーのハマー・H3 を駆った。しかし2度のステージ勝利を得たもののマシントラブルが頻発し、第9ステージでリタイアに終わった。
バギーの良さを確認したアル=アティヤは[ 4] 、アメリカのジェフリーズ・レーシングの元へ飛び、バハ1000 用マシンをダカール規定に合わせこんだ二輪駆動バギー を開発。エンジニアはWRC のトヨタ・セリカ を手がけたジェラルド・ジジクが就任し、スポンサーにレッドブル とカタール観光庁が就いて、カルロス・サインツ を引き込むことに成功した。バギーカーに有利な規則改定がされたこともあって、序盤に二人合わせてステージ4勝を挙げたが、冷却系のリタイアに終わっている。
2013年ダカール。ジェフリーズ・バギーをドライブ。
ジェフリーズ・バギーは3年計画だったが、カタールの支払いの滞りで開発も進まず、レッドブルにも愛想を尽かされて破綻[ 5] 。2014年大会のエントリー終了後数時間前に、X-raidに電撃復帰することが発表された[ 6] 。モンスターエナジー とのスポンサーのバッティングを避けるため、別チームとしてエントリーした[ 7] 。MINIの表彰台独占の一角を占める総合3位を獲得した。
2015年からダカールでもWRC2でもナビとなったフランス人のマシュー・ボウメルが、長きに渡る相棒となる。ここで高山病 に悩まされ、何度も嘔吐しながら自身2度目となる総合優勝を果たした[ 8] 。さらに同年、FIAクロスカントリーワールドカップで2度目のタイトルを獲得した。
2016年ダカール前のプレスカンファレンスにて。左からセバスチャン・ローブ 、アル=アティヤ、ステファン・ペテランセル 、ナニ・ロマ
2017年ダカールにてトヨタ・ハイラックスEvoをドライブ
2016年ダカールで2位を獲得後、同年のワールドカップにはTOYOTA GAZOO Racing SA (南アフリカ 法人)に移籍してハイラックスで参戦。2016年・2017年と引き続きワールドカップタイトルを獲得し、X-raid時代と合わせて3連覇している。
ペルー 単独開催となった2019年ダカールでは、山脈越えが無くなったため自然吸気エンジンの不利が減ったこともあり、得意とする砂丘での強さを存分に活かし、自身3度目、トヨタにとっては初の総合優勝を果たした。同年はカンナム のサイド・バイ・サイド・ビークル (SxS)でモロッコ のメルズーガ・ラリーにも挑戦しており、総合優勝を飾っている[ 9] 。
2020年ダカールではF1王者のフェルナンド・アロンソ のチームメイトとしても注目を集めた。
2022年と2023年のダカールもトヨタのエースとして連覇し、通算5度の総合優勝を果たしている[ 10] [ 11] 。
また2022年に開幕した世界ラリーレイド選手権 (W2RC)でもセバスチャン・ローブ のプロドライブ 勢に競り合い勝ちし、初代世界王者となった。翌2023年もボウメルとともにタイトルを連覇した。
2023年のバハ・アラゴンで優勝した直後にトヨタ離脱を発表し、W2RC終了後のバハ・ポルタルグレからボウメルともどもプロドライブ・ハンター へと乗り換えた。ボウメルによるとこの移籍は、ダカールで将来導入される次世代パワートレイン(電動や水素)において、翌年もまだ純ガソリン車を採用する予定のトヨタが出遅れていると感じての、長期的な視野からの決断であったという[ 12] 。
ラリー
2021年スペイン国内選手権でフォルクスワーゲン・ポロR5 をドライブ
射撃の選手としてひとかどの評価を得ていたがラリーへの想いを諦めきれなかった2003年、カタール自動車連盟の誘いと支援によりFIA中東ラリー選手権(MERC)に参戦。以降同選手権で18度(最大12連覇、2022年時点で継続中)ものタイトルを獲得している。これはFIAの地域ラリー選手権では最多記録である。[ 13] 。2022年時点で同選手権で通算85勝を記録している。また2019年にはキプロス・ラリー で欧州ラリー選手権 (ERC)の同一イベント最多連勝(6連勝)もマークしている。マシンはスバル、フォード、フォルクスワーゲンを順に用いている。
世界ラリー選手権 (WRC)デビューは2004年 で、下部カテゴリーであるプロダクションカー世界ラリー選手権 (PWRC)でインプレッサ WRX STI をドライブ。ナビはアイルランド人のクリス・パターソン 。3年計画の3年目となる2006年に新井敏弘 を破ってシリーズチャンピオンを獲得した。これ以降も3年間PWRCに参戦した。2008年にイタリア人ナビのジョバンニ・ベルナーニと組み、2014年まで関係を続けることとなる。
2010年 からSWRCに転戦。2010年はシュコダ・ファビアS2000 、2011年はフォード・フィエスタS2000 をドライブしたが、最高位は2位で未勝利に終わった。
2012年ラリーGB にてシトロエン・DS3 WRC をドライブ
2012年 はシトロエン のサポートを受けてカタール・ワールド・ラリーチームからワークススペックのWRカー であるシトロエン・DS3 WRC を駆り、スウェーデン を皮切りに8戦へ出場。ポルトガル では自己最高位4位入賞を果たした。
2013年ラリー・メキシコ にてフォード・フィエスタ RS WRC をドライブ
フォード のワークス活動終了に伴い、チーム運営元のMスポーツ をカタールが支援することになった。これにより、アルアティヤはMERCを主戦場としつつも、日程が被らないWRCイベントにMスポーツのフォード・フィエスタRS WRC で参戦した[ 14] 。2013年 は当初8戦に出場する予定だったが、カタールの支払いの滞りによる「体調不良」やクラッシュでの怪我が影響し5戦の出場に留まった。第6戦アクロポリス ではフォルクスワーゲン のアンドレアス・ミケルセン と4位争いを繰り広げたが、最終日に3連続ステージベストをマークしたミケルセンに逆転を許し5位に終わった。
2014年 はWRC2に7戦に出場し4勝を挙げ2006年のプロダクションカー世界ラリー選手権 (PWRC)以来となる2度目の世界チャンピオンを獲得。2015年はナビがマシュー・ボウメルとなったが、3勝を挙げてタイトル連覇を果たした。
オフロードレース
2019年にバハ1000 にレッドブル カラーに塗られたメイソン・モータースポーツ製の4WD トロフィー・トラックをドライブ。二輪のダカール王者であるトビー・プライス とコンビを組んだ。初参戦、しかも本番2日前にようやくマシンが届くという状況で、総合2位という驚異的な結果を残した[ 15] [ 16] 。
EV で行われるエクストリームE に2022年からアプト・クプラ より参戦。コ・ドライバーは序盤はユタ・クラインシュミット 、途中からクレア・アンダーソンとなった。同年はチリ戦の3位が最高位となっている。
サーキットレース
F1未経験ながらスピードカー・シリーズ の2008-2009年シーズンの2戦にスポット参戦。
2010・2011年にダカールに参戦していたフォルクスワーゲンの縁で、ニュルブルクリンク24時間レース において天然ガスを燃料とするフォルクスワーゲン・シロッコ をドライブ。双方の年でクラス優勝を飾った。なお2011年はカルロス・サインツ 、ジニエル・ド・ヴィリエ と合わせてダカール覇者3名を揃えたドリームチームであった[ 17] 。
2015年、地元カタールで行われた世界ツーリングカー選手権 (WTCC)最終戦にシボレー・クルーズ でスポット参戦。第一レースは16位、第二レースは14位に終わっている。
射撃選手として
射撃場にて(2011年)
資金難でラリーレイドを休止した期間に、クレー射撃 の射手を育成するカタール政府のプログラムに参加。元々狩猟も嗜んでいたアルアティヤはわずか6ヶ月のトレーニングで、アジア大会2位を獲得。その後1996年アトランタオリンピック からカタール代表として夏季五輪に6大会連続出場した。1997年のワールドカップでは3位、2002年 と2010年のアジア競技大会 ではスキートで金メダルを獲得、2004年アテネオリンピック でも同種目で4位に入賞している。
2012年は、五輪代表選考会となるアジア射撃選手権がダカール・ラリーの期間中に行われるため、五輪代表の座を事実上あきらめていたが、皮肉にもダカール・ラリーで途中リタイアしたことからアジア選手権への参加が可能になり、同大会のスキート男子で優勝[ 18] 、ロンドンオリンピック のカタール代表の座を手にした[ 19] 。5度目の五輪となるロンドンではスキートで銅メダルを獲得した。
夏季五輪では北京オリンピック でカタール選手団 の旗手も務めた。ロンドンオリンピックでも当初旗手を務める予定だったが[ 20] 、結局旗手は他の選手に交代している。
2023年アジア競技大会 で開催されたクレー射撃の男子スキート射撃にカタールチームの一人として参加し、団体銀・個人銅メダルを獲得している[ 21] 。
人物
相棒のマシュー・ボウメル
カタールの王族の一派であるアル=アティヤ家出身で、「砂漠の王」または「砂漠の王子」とも呼ばれる。いとこのタミル・ビン・ハマド・アル=ザニは投資会社QSI(カタール・スポーツ・インベストメント)のオーナーとしてパリ・サンジェルマンFC を所有する[ 22] 。
少年期はドーハ 郊外に住んでおり、近くにあった広大な砂漠で11歳の頃から密かに自動車を乗り回した。初の愛車は17歳のときに父からもらった日産・パトロール 。
WRC王者とダカール総合優勝のどちらかを選べるなら、後者であると公言している。また射撃関係者からラリーをやめてくれと言われた時、「それなら射撃をやめる」と答えたと述懐している。
PWRC時代は新井敏弘 のサービスによく遊びに来ていた。新井はアル=アティヤをスポーツマンとして高く評価している一方、勝手にチームのカップラーメン やカリカリ梅 を食べるのはやめてほしい、とも笑いながら話している。
綿密な計画を立てて入念に実行に移す努力家タイプである。出身地ゆえに暑さやラフロードに強い、射撃をしているため集中力が高いなどの武器も指摘されているが、それ以上にフィジカルトレーニングを怠らず、貪欲に勝利を追求するプロフェッショナルな姿勢を高く評価する声が多い。
窮地に陥った他のドライバーの参戦を支援したエピソードが幾つかある。2009年にブラジルのセルトゥース国際ラリーに参戦した際、現地で「フライング・ジャポネーズ」として知られる日系女性オフロードレーサー、ヘレナ・デヤマ[ 25] がステージ7で2位を走行中にマシンを全焼させてしまい、カンパが募られた。アル=アティヤは2万ドルという大金を寄付する気前の良さで人気者となってブラジルを去った[ 26] 。また2022年ダカールでレベリオン・レーシング から参戦のロマン・デュマ は、シェイクダウンでマシンを全焼させたチームオーナーに自分のマシンを譲ったため、参戦が不可能になったかと思われた。しかし開幕2日前にデュマが朝食でこの件をアル=アティヤに話したところ、カタールの個人博物館に収めたばかりの前年型のトヨタ・ハイラックス をたった1日で緊急輸送してもらえることになり、参戦することが可能となった[ 27] [ 28] 。
トラブルでストップした後の再スタートの際、シートベルト をきちんと締めずに発進してしまうという悪癖があり、2022年ダカールで5分のタイムペナルティを受けている。これは公式アカウントがSNS に上げた、ステージ中にタイヤ交換をするセバスチャン・ローブ /ファビアン・ルルカン組との比較動画から「タイヤ交換が速すぎる」というファンの指摘があって発覚するという、インターネット時代を象徴するかのような出来事でもあった[ 29] 。また2023年FIA中東ラリー選手権開幕戦でも、SS1のクラッシュでのラジエーター 破損を修復した際に同様のことをして5分のタイムペナルティを受けた[ 30] 。
CARWOW のYouTubeチャンネルではボウメルと共に登場し、GRダカールハイラックスT1+ vs ランドクルーザーGR SPORT(300系) 、さらにはハイラックスT1+ vs GRスープラ vs GRヤリス のドラッグレース 企画に参加した[ 31] 。
脚注
注釈
出典
参考文献
敬介, 古賀「標的を射抜く、眼 インタビュー NASSER AL Attiyah」『WRC PLUS』第6巻、三栄書房、2009年9月、53-57頁。
泉, 廣本「インプレッサグループNを御す"ナッサーメゾット"」『WRC PLUS』第6巻、三栄書房、2009年9月、50-51頁。
外部リンク
WRC
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
WRC2
WRC3
2013 セバスチャン・シャードネット
2014 ステファン・ルフェーブル
2015 クエンティン・ギルバード
2016 シモーネ・テンペスティーニ
2017 ニル・ソランス
2018 エンリコ・ブラゾッリ
2020 ヤリ・フットゥネン
2021 ヨアン・ロッセル
2022 ラウリ・ヨーナ
2023 ローペ・コルホネン
JWRC
2000年代
2001 セバスチャン・ローブ
2002 ダニエル・ソラ
2003 ブライス・ティラバッシ
2004 パー・ガンナー・アンダーソン
2005 ダニ・ソルド
2006 パトリック・サンデル
2007 パー・ガンナー・アンダーソン
2008 セバスチャン・オジェ
2009 マルティン・プロコップ
2010年代
2010アーロン・ブルカルト
2011 クレイグ・ブリーン
2012 エルフィン・エバンス
2013 ポンタス・ティデマンド
2014 ステファン・ルフェーブル
2015 クエンティン・ギルバード
2016 シモーネ・テンペスティーニ
2017 ニル・ソランス
2018 エミール・ベルクヴィスト
2019 ジャン・ソランス
2020年代
2020 フランシス・レナルス
2021 サミ・パヤリ
2022 ロバート・ヴィヴレス
2023 ウィリアム・クレイグトン
PWRC
2000年代
2002 カラムジット・シン
2003 マーチン・ロウ
2004 ナイオール・マクシェア
2005 新井敏弘
2006 ナッサー・アル=アティヤ
2007 新井敏弘
2008 アンドレアス・アイグナー
2009 アーミンド・アラウージョ
2010年代
2010 アーミンド・アラウージョ
2011 ヘイデン・パッドン
2012 ベニート・ゲラ