サー・デイヴィッド・スチュアート・ビーティー(英語: Sir David Stuart Beattie、1924年2月29日 - 2001年2月4日)は、ニュージーランドの法曹。第14代ニュージーランド総督(在職: 1980年 - 1985年)を務めた。
1924年にオーストラリアのニューサウスウェールズ州シドニーに生まれる。両親の離婚により、ニュージーランド・オークランド北部のタカプナ(英語版)で母親に育てられた。オークランドにあるボーディングスクールのディルワース・スクール(英語版)で学んだ[1]。
1948年にオークランド大学で法学の学位を取得し弁護士として開業、1964年に勅選弁護士(英語版)となった[2]。1969年から1980年までニュージーランド最高裁判所(英語版)(Supreme Court of New Zealand)[註 1]の裁判官を務めた後、1980年にエリザベス2世によってニュージーランドの総督に任命された[1]。同年総督就任に先立って聖マイケル・聖ジョージ勲章のナイト・グランド・クロス勲爵士を受勲[3]。
1984年、首相ロバート・マルドゥーンの与党ニュージーランド国民党は1984年ニュージーランド総選挙(英語版)でデビッド・ロンギ率いるニュージーランド労働党に敗れた。ロンギ次期首相は通貨危機回避のためニュージーランド・ドルの切り下げを要請するもマルドゥーン首相はこれを拒否、通貨危機が発生する事態となった(1984年ニュージーランド憲法危機(英語版))。このときビーティーは国民党幹部に対してマルドゥーン首相を総督権限で解任し副首相ジム・マックレイを首相代行に任命することを提案したが、最終的にマルドゥーンが党内の圧力に屈したため実行に移されることはなかった。この政治危機は1986年憲法典法(英語版)の制定へと繋がった。
1985年に総督を退任。1989年より11年間ニュージーランドオリンピック委員会(英語版)の会長を務め、国際オリンピック委員会からオリンピック功労章(英語版)を授与されている[1][2]。
2001年にウェリントン地方アッパー・ハット(英語版)の自邸で死去し、国葬で葬られた[2]。