ビコの名声は死後に広まった。彼は数多くの歌や芸術の主題となり、友人のドナルド・ウッズによって1978年に書かれた伝記は1987年の映画「遠い夜明け」の原作となった。ビコの生前、南アフリカ政府はビコが白人を嫌悪しており、何人もの反アパルトヘイト活動家がビコの女性蔑視を訴えていたと主張していた。また、アフリカ人の人種的ナショナリストはビコのカラードとインド人との統一戦線を批判していた。それにもかかわらず、ビコは反アパルトヘイト運動における最初期の象徴となり、政治的殉教者、「黒人意識の父(Father of Black Consciousness)」と見做された。その政治的遺産は現在でも論争の対象である。
来歴
若年期:1946-66
バントゥー・スティーヴン・ビコは1946年12月18日[1]に、東ケープ州タルカスタッド(英語版)の祖母の家で生まれた[2]。彼はムジンガエ・マシュー・ビコ(Mzingaye Mathew Biko)とアリス・「マムシート」・ビコ(Alice 'Mamcete' Biko)の3番目の子供であり[3]、姉ブケルワ(Bukelwa)、兄カイヤ(Khaya)、そして妹ノバンディル(Nobandile)がいた[4]。ムジンガエとアリスの夫妻は、ムジンガエが警官として勤めていたウィットルシー(英語版)で結婚した。ムジンガエはクイーンズタウン(英語版)、ポート・エリザベス、フォート・コックス(英語版)と順に移り住み、最終的にキングウィリアムズタウンのギンズバーグ・タウンシップ(英語版)にアリスと共に落ち着いた[5]。この地域には800世帯前後が居住しており、4世帯ごとに給水設備とトイレを共用していた[6]。バントゥー系アフリカ人(英語版)とカラードの両方がこのタウンシップ(英語版)で生活しており[7]、コーサ語、アフリカーンス語、そして英語が全て使用されていた[8]。警察を辞職したあと、ムジンガエはキングウィリアムズタウン・ネイティヴ・アフェアーズ・オフィス(King William's Town Native Affairs Office)の職員として働く傍ら[9]、法律の学位を取得するため南アフリカ大学の通信教育で勉強した[10]。アリスは最初、地元の白人家庭の家内労働者として雇用され、その後キングウィリアムズタウンのグレイ病院でコックとして雇われた。ビコ(バントゥー)の妹によれば、母親の厳しい労働環境を目の当たりにしたことが、ビコの最初期の政治化をもたらした[11]。
ビコは2年間をセント・アンドリュース小学校(St. Andrews Primary School)で過ごし、4年間をチャールズ・モーガン高等小学校(Charles Morgan Higher Primary School)で過ごした。これらの学校はいずれもギンズバーグにある[16]。ビコは特に優秀な生徒であると評価され、飛び級を許可された[17]。1963年に同じくギンズバーグにあるフォーブス・グラント中学校(Forbes Grant Secondary School)に転入した[18]。ビコは数学と英語に秀でており、試験でクラス首位となった[19]。1964年、ギンズバーグのコミュニティはビコに、兄弟のカイヤが入学していたアリス(英語版)の権威ある寄宿学校、ラヴデール(英語版)の生徒になるための奨学金を提供した[20]。ビコの入学から3カ月もしないうちに、カイヤが政府に禁止されたアフリカ・ナショナリスト(英語版)グループであるパン・アフリカニスト会議(英語版)の武装部門、ポコ(英語版)(Poqo)と関わりを持っているとして告発された。カイヤとビコは二人とも逮捕され、警察の尋問を受けた。そしてカイヤは有罪判決を受け、その後上訴審で無罪となった[21]。ビコとポコの関係を証明する明白な証拠は提示されなかったが、彼はラヴデールを退学させられた[22]。後に彼は、この件について「私は他の何にもまして、権力に向ける態度を強く持ち始めた。私は地獄のような権力を憎んだ」と述べている[23]。
1964年から1965年にかけて、ビコはナタール州マリアンヒル(英語版)にある南アフリカのカトリック教会(英語版)の寄宿学校、セント・フランシス・カレッジ(St. Francis College)で学んだ[24]。このカレッジはリベラル的な政治文化を持っており、ここでビコは自身の政治意識を強めた[25]。彼は特に
南アフリカの少数派の白人(英語版)による植民地政府を多数派の黒人を代表する政権に置き換えることに関心を示した[26]。当時の反植民地主義者のリーダーたちの中で、ビコにとってのヒーローとなった人物にはアルジェリアのムハンマド・アフマド・ベン・ベラと、ケニアのジャラモギ・オギンガ・オディンガがいる[26]。彼は後に、家族の中の「政治屋(politicos)」のほとんどが、反共主義とアフリカ人種主義の考え方を持つPACに共感的であったと語っている。ビコはそのメンバーの多大な勇気を称え、PACを「とても良い組織」であると称賛したが、全ての人種が政府に対抗して結集すべきであると信じており、PACの人種排除的なアプローチには納得できないでいた[27]。1964年12月、彼は象徴的な成人の儀式であるウルワルコ(英語版)で割礼を受けるため、ズウェリチャ(英語版)に旅をした[28]。
初期の学生運動:1966-68
アパルトヘイト制度の人種隔離は、人生のあらゆる領域を貫いていた。ビコはその打倒を誓っていた。
ビコは当初、大学で法律を学ぶことを望んだが、彼の周囲の多くの人々は法律が政治的行動主義とあまりに密接に結びついていると考え、ビコを思いとどまらせた。彼らはその代わりに、より良いキャリアが見込める分野である医学を学ぶようにビコを説得した[29] 。ビコは奨学金を確保し[29]、1966年にウェントワース(英語版)のダーバン・タウンシップにあるナタール大学(英語版)医学学校の「非ヨーロッパ人」部門に入学した[30] 。ビコはそこで南アフリカ全域から来た学生グループに加わった。彼の伝記作家であるショレラ・マンクー(Xolela Mangcu)はこれを「格別洗練された国際的な学生グループ(a peculiarly sophisticated and cosmopolitan group of students)」と呼んでいる[31]。彼らの多くが将来、アパルトヘイト後の時代において重要な役割を果たすことになる[32]。1960年代後半は、1968年の抗議運動(英語版)に代表されるように、世界中の急進的学生運動の全盛期であった[33]。そしてビコはその状況の中に身を投じたいと熱望していた[34]。彼は大学に入学した直後、学生代表評議会(Students' Representative Council:SRC)に選出された[35]。ナタール大学のSRCは南アフリカ学生連盟(英語版)(NUSAS)と提携していた[36]。NUSASは多民族からなる会員を育成することに苦心したが、白人優位の体制が維持されていた。なぜならば、南アフリカの学生の大半は国内の白人少数派出身者だったからである[37]。NUSASのリーダー、クライブ・ネトルトンは次のように述べている。「問題の本質は、NUSASは白人のイニシアティブで設立され、白人の資金提供で賄われ、構成員の大多数を占める白人の意見を反映していることだ[38]。」。NUSASは公式にアパルトヘイト反対を訴えていたが、保守派の白人学生の支持を維持するため、その主張を和らげていた[39] 。ビコと数名のアフリカ系黒人NUSAS会員は、アフリカ系黒人が入館を禁じられた白人学生寮で大会[訳語疑問点]を組織した時、不満を募らせた[40]。1967年7月、グラハムズタウンのローズ大学でNUSASの会議が開催された。学生たちが到着した後、彼らは白人とインド人の代表者のために寮の宿泊施設が準備されていることを確認したが、アフリカ系黒人の代表者にはそれがなく地元の教会で眠るように伝えられた。ビコと他のアフリカ系黒人代表者は怒りの中で会議を退出した[41]。ビコは後に、この出来事が政治的行動主義の多人種的アプローチを再考することを彼に要求したとしている[42]。
ビコは他の黒人学生指導者たちとの対話の中で「黒人意識」というSASOの思想を発展させた[51]。1971年7月に制定されたSASOの宣言書(manifesto)はこの思想を、「精神的姿勢、人生の道、黒人意識の基本的主張は黒人(Blackman)は、本人が生まれたその国で、彼を外国人と化し、その基本的な人間としての尊厳を損なうあらゆる価値体系を拒否しなければならないということである。」と定義している[52]。黒人意識の中核は精神的活力の向上であり[53]、それを通じてほとんどの黒人系南アフリカ人が示していた劣等感と戦うことであった[54]。ビコはアパルトヘイトと白人少数派に対する闘争の一環として、黒人は自身を自由とそれに伴う責任にふさわしい存在であるとみなすことによって、自らの人間性を肯定すべきだと考えていた[55]。「黒人」という用語は、バントゥー語を話すアフリカ人だけではなく、インド人とカラードに対しても適用された[56]。SASOはこの用語を「非白人(non-white)」を越えるものとして採用した。なぜならば、SASOの指導部は彼ら自身を白人に対抗する者と定義することはポジティブな自己説明ではないと感じたからである[57]。ビコはブラック・イズ・ビューティフル(英語版)というスローガンを押し広め、これは「人よ、あなたはあなた自身のままで良い。あなた自身を人間として見始めよ。(Man, you are okay as you are. Begin to look upon yourself as a human being.)」という意味であると述べた[58]。
1971年8月、ビコはエデンダール(英語版)で開催された「アフリカ共同体の発展(The Development of the African Community)」の会議に出席した[82]。ここで、より多くの人々に黒人意識を訴えるための手段として、黒人人民会議(英語版)の形成を求める決議が出された。ビコは新組織の創設に賛成票を投じたものの、南アフリカのカラードやインド人との協議の欠如について留保を表明した[83]。A.マヤトゥラがBPCの最初の議長(president)となり、ビコは指導的立場には立たなかった[84] 。このグループは1972年7月、ピーターマリッツバーグで正式に発足した[84]。1973年までに41の支部と4,000人の会員を持ち、SASOと会員の多くを共有していた[80]。
1973年のビコの活動禁止命令は、彼が以前に僅かな報奨金を得ていたBCPsのために公式に働くことを妨げたが、彼はギンズバーグの新しいBPC支部の設立を支援した。この支部は運動に共感的な教会の白人牧師、デーヴィッド・ラッセルとの最初の会合を開いた[89] 。そしてレオポルド・ストリートにより恒久的な本部を設置し、この支部は新たなBCPsを形成する拠点を務めた。このBCPsの中には文字、服飾、そして健康教育のクラスなどが含まれていた[90]。ビコにとって、コミュニティの発展は黒人の人々に誇りと尊厳を注ぎ込む過程の一部であった[91]。キングウィリアムズタウンの近郊では、医療施設へのアクセスが不可能な田舎部の黒人に医療を出張提供するBCP・ザネンピロ診療所が設立された[92]。彼は働く母親の子供たちのためのデイケア施設であるギンズバーグ託児所を復活させ[93]、有望な地元の学生たちのための奨学金を増額するためのギンズバーグ教育基金設立を支援した[94]。彼は地元の女性に雇用を供給する革製品会社、ンジェワクサ・ホーム・インダストリーズ(Njwaxa Home Industries)の設立も支援した[95]。1975年には、政治犯の家族のための基金としてジメル・トラスト(Zimele Trust)を共同設立した[96]。
1973年、ビコは南アフリカ大学の通信教育によって法学部に入学した。彼はいくつかの試験に合格したが、死亡するまでに学位を修了することはできなかった[111]。この学部における彼の成績は悪く、彼は複数の試験に欠席し、実践的なアフリカーンス語の単位取得に失敗した[112]。国家警察(The state security services)は再三にわたり彼を脅迫しようとした。ビコは匿名の脅迫電話を受け[113]、家には銃弾が撃ち込まれた[114]。そこで「キューバ人(The Cubans)」と称する若者たちが、これらの攻撃からビコを護衛するようになった[115]。警察は101日間の間に4回ビコを拘留した[116]。ビコの就職が禁止されたことで経済状況が切迫し、このことが彼の結婚に影響を与えた[78]。
ビコの死のニュースは瞬く間に全世界に広まり、アパルトヘイト制度の不正の象徴となった[144]。ビコの死は、彼の生前に達成したよりも遥かに大きな世界的注目を浴びた[145]。いくつかの都市では抗議集会が開催され[146]、多くの人々が治安当局がこれほど有名な反体制派の指導者を殺害したことに衝撃を受けた[147]。聖公会(Anglican)式のビコの葬儀は、1977年9月25日、キングウィリアムズタウンのヴィクトリア・スタジアムで執り行われ、5時間にわたり20,000人の人々が参列した[148]。参列者の大部分は黒人であったが、ラッセルやウッズのようなビコの友人や、ヘレン・スズマン、アレックス・ボレイン、そしてザック・ド・ビール(英語版)のような著名な改革派の人物を含む数百人の白人も出席した[149]。13か国の外交官が参列し、大主教デズモンド・ムピロ・ツツが率いる聖公会の代表団も同様に参列した[150]。この出来事は後に、「南アフリカにおける最初の大衆政治的葬儀(the first mass political funeral in the country)」と記録された[151]。ビコの棺は黒い握り拳のモチーフとアフリカ大陸があしらわれ、「一つのアザニア(One Azania)、一つの国民、One Nation)という声明が飾られていた。アザニア(英語版)は多くの活動家がアパルトヘイト後の南アフリカに採用を望んでいる名前であった[152]。ビコはギンズバーグの墓地に埋葬された[153] 。BCMと提携していた二人のアーティスト、ダイコベ・ベン・マーティンズ(Dikobé Ben Martins)とロビン・ホームズ(Robin Holmes)がこの出来事を記念したTシャツを生産した。このデザインは翌年禁止された[154]。マーティンズはまた、この葬儀を記念するポスターを作製した。これは1980年代に人気を博した葬儀ポスターの伝統の最初の例である[155]。
この評決は数多くの国際的メディアとアメリカ合衆国大統領ジミー・カーターから懐疑の目を向けられた[168]。1978年2月2日、ケープ州の法務長官は検死で得られた証拠に基づき、警官たちを起訴しないと述べた[169]。この検死の後、ビコの家族は国に対して民事訴訟を起こした。弁護士団の助言を得て、家族は1979年7月に65,000南アフリカランド(78,000USドル)での和解に同意した[167][170]。検死の直後、南アフリカ医学・歯科会議(South African Medical and Dental Council)が、ビコの治療を担当した医療専門家に対する手続きを開始した。8年後、医師のうち2名が不適切な行為によって有罪と認定された.[171]。政府に雇用された医師によるビコの診察または治療の不手際は、抑圧的政府が医療従事者の意思決定に影響を呼ぼした実例として頻繁に引用されている。そしてビコの死は、医者が患者のニーズに先立ち、国家のニーズに応える必要性があったことの証拠である[138]。
黒人意識運動の思想はビコ1人によってではなく、白人リベラリズムを拒絶した他の黒人学生との長い議論を通じて発展したものである[51]。ビコはフランツ・ファノン、マルコムX、レオポール・セダール・サンゴール、ジェイムズ・ハル・コーン(英語版)、そしてパウロ・フレイレのような著作家から影響を受けた[51]。特にマルティニーク生まれのファノンは、ビコの解放についての思想に深い影響を与えていると言われている[174]。ビコの伝記作家ショレラ・マンクーはビコをファノンの解釈者へと矮小化することは誤りであり、また、「東ケープ州の政治的、知的歴史(the political and intellectual history of the Eastern Cape)」の影響も認めなければならないと注意を促している[175]。黒人意識に更なる影響を与えたのは、アメリカ合衆国に基盤を置くブラック・パワー運動(英語版)であり、[52]活動主義的思考を持った黒人神学(英語版)のようなキリスト教の形態であった[176]。
黒人意識とその高揚
ビコはアパルトヘイト政府の南アフリカ住民の部族と民族グループへの分割を拒否し、その代わり人々を白人と黒人の2つのカテゴリーに分けた[177]。ビコは黒人性とは「皮膚の色(matter of pigmentation)」ではなく、「精神的姿勢(mental attitude)」であると定義し、「黒人(blacks)」とは「南アフリカ社会において法律または政治的伝統、経済、社会的な差別の対象となっているグループ」であり、「自身の希望の実現に向けた闘争の一員として」自己を定義するものであるとした[177]。このように、彼と黒人意識運動は「黒人(black)」をバントゥー語を話すアフリカ人だけではなく、カラードとインド人をも言及する用語として使用した[56]。これらを合計すると1970年代の南アフリカの人口のほぼ90%を占めていた[178]。ビコはマルクス主義者ではなく、南アフリカを変化させるための主な政治的動機となるのは、階級ではなく人種に基づく抑圧であろうと考えていた[179]。彼は「白人左派」がしばしば階級に基づいた分析を「彼らは白人であるため、彼らに某かの不本意な影響が及ばないように、主に我々を人種に関する事物から切り離したいがために、防御メカニズムとして」行っていたと論じた[180]。
ビコの活動主義へのアプローチは、精神的高揚に焦点を当てたもので[53]、彼とBCMの両方とも、大部分の南アフリカの黒人が経験した劣等感を払拭することを主たる目標であると見ていた[54]。ビコは黒人の精神的敗北感を「黒人は貝殻に、人間の陰になった... 恥ずべき臆病とともに抑圧の軛を支えている。」と表現し[訳語疑問点][184]、「抑圧者の手の内にある最も強力な武器は、抑圧された人々の心だ」と述べた[184]。彼は、自身の恐怖を克服し彼ら自身が自由とそれに伴う責任にふさわしいと考える事によって、黒人が自らの人間性を認める必要があると考えていた[55]。彼は黒人意識を「誇りと尊厳を人々に注ぎ込む」であろう「内面的な過程」と定義している[184]。これを促進するため、BCMは「ブラック・イズ・ビューティフル(Black is Beautiful)」というスローガンを採用した[178]。
ビコの死の1年後、彼の「フランク・トーク」名義の著作物が1冊の本にまとめられ『俺は書きたいことを書く(英語版)』として出版された[244]。ビコがSASOの活動家たちの逮捕に対して提供した弁護は、1978年にミラルド・アーノルドが執筆した本、『Testimony of Steve Biko』の原型となった[245]。同年、ウッズはイングランドに亡命し、その地でアパルトヘイトに対する反対運動を続けた。更にビコに関する多くの新聞記事と、1978年の著作『ビコ』において、彼の人生と死について執筆した。これはリチャード・アッテンボロー監督による1987年の映画、『遠い夜明け(Cry Freedom)の作成に繋がり,[246]、デンゼル・ワシントンがビコ役として主演した[247]。『遠い夜明け』はビコの人生と行動主義を多くの人々に伝えた[248]。
ビコはその死後にいくつかの芸術作品で記念されている[251]。フランスに拠点を置く南アフリカ人のアーティスト、ジェラード・セコト(英語版)は1978年に『Homage to Steve Biko』を制作し[252]、別の南アフリカ人アーティスト、ピーター・ストップフォース(英語版)は1979年の彼の展覧会で、『The Interrogators』と題する作品を発表した。3部作であり、ビコの死に関わった3人の警察官を描いている[253]。ケンヤ(Kenya)はビコの顔のデザインの切手を発行した[171]。
アパルトヘイトが崩壊した後、ウッズはビコの銅像の製作をナオミ・ジェイコブソン(英語版)に委託するためのファンドを立ち上げた。これは東ケープ州のイースト・ロンドンのシティホールの玄関ドア前に立てられ、第二次ボーア戦争で殺されたイギリス兵を記念して立てられた[257]。1997年9月の銅像公開の際には10,000人以上が参列した[258]。その後の数ヶ月、この像は何度も損壊された。1つの事例として、像に「AWB」という文字が塗りつけられた。これは極右アフリカーナーの準軍事組織、アフリカーナー抵抗運動の略称である[259]。1997年、ビコが埋葬された墓地はスティーヴ・ビコ記念公園(Steve Biko Garden of Remembrance)と改名された[151][260]。第6地区博物館(英語版)もまた、ビコの遺産を調査し、死去20周年を記念した作品展を開催した[261]。
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