ジョゼ・カルロス・セホーン(José Carlos Serrão、1950年10月12日 - )は、ブラジル・サンパウロ州サンパウロ出身[1]の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード、ミッドフィールダー。
選手時代の登録名はゼ・カルロス (Zé Carlos)[2]であった。
経歴
選手時代
選手時代はウイング[4] または左ミッドフィールダー[4]、攻撃的ミッドフィールダー[2]としてプレー。
1965年、15歳からサンパウロFCで育ち[2]、1969年から1977年までプロ選手として所属した[2]。1971年にはキンゼ・デ・ピラシカーバでもプレーした[4]。1972年2月9日にサンパウロFCで初めて試合に出場し[5]、通算261試合出場28得点[4](または267試合30得点[5])。うち全国選手権では84試合出場8得点、コパ・リベルタドーレスでは16試合3得点[6]。1974年コパ・リベルタドーレス決勝のインデペンディエンテとの第3戦では、後半27分にPKを任されたが失敗、チームは準優勝に終わった[2][4][7]。1975年にはサンパウロ州選手権に優勝し、そのチームでセホーンはペドロ・ローシャ、ムリシ・ラマーリョ、セルジーニョ・シュラッパとともに攻撃陣を形成した[2]。
1977年にサンパウロを離れ、1977年にボタフォゴ-PBでパライバ州選手権、1978年にジョインヴィレでサンタカタリーナ州選手権に優勝した[2]。怪我もあり、1980年のコロンビアのククタでのプレーを最後に30歳で引退した[2]。
サンパウロ州選抜として6試合に出場し[8]、1974年にはマリオ・ザガロ監督によってワールドカップ・西ドイツ大会のブラジル代表候補に選出されるも、怪我の為に本大会出場は叶わなかった[9]。
指導者として
引退後、古巣のサンパウロFCにコーチングスタッフとして加わり、1983年、1986年、1987年に暫定監督、1986年に監督代行を務めた[10][11]。サンパウロが9年ぶりに優勝した1986年のブラジル全国選手権では、セホーンは暫定監督として序盤3試合で指揮を執った。
1998年、リオ・ブランコ-MG(ポルトガル語版)を率いてミナスジェライス州選手権モドゥーロII(2部)に優勝して昇格に導いた[13][14]。
コリンチャンスの育成部門で指導にあたっていた2000年には、オズワルド・オリヴェイラに代わってコパ・ド・ブラジルでトップチームの監督代行を1試合務めた[1]。
2009年、セルトンジーニョを率いてサンパウロ州選手権セリエA-2(2部)からセリエA-1(1部)へ昇格[15][16]。
ポーランドのMKSポゴニ・シュチェチンでは、同国リーグにおける最初のブラジル人監督となった[17]。
2011年12月26日、2012年シーズンからのJリーグ・ガンバ大阪監督就任がクラブより発表された[18]。当初、G大阪は元日本代表の呂比須ワグナーを新監督に迎えようとしたが、呂比須がJリーグの指導者資格の要件を満たさないため、呂比須の推薦によりセホーンが監督に就いた[9]。呂比須はセホーンがサンパウロのU-17監督だったころの教え子であり、彼をトップチームに推薦したのがセホーンだった[9]。招聘したG大阪強化本部長の山本浩靖が2人の立場について「あくまでもセホーンがクラブのトップ。呂比須との二頭体制には成りえない」と主張したが、実際に指揮を執ったのは呂比須だった。セホーンは、「呂比須から意見を聞かれたら、自分の考えを伝えた。ただし、最終判断を下すのは彼。私の重要な任務のひとつは、“監督”としてメディア対応をすることだった。ただ、戦術や選手交代を自分で決めたわけではないから、質問によっては答えようがないこともあった」と振り返る[9]。
セホーンの談話によれば、選手補強やブラジル人のコーチングスタッフの選定についても呂比須が主導したという[9]。開幕からJ1リーグ、AFCチャンピオンズリーグあわせて公式戦5連敗を喫し、3月26日にセホーン、呂比須ともに解任が発表された[22]。
2016年、セルトンジーニョでサンパウロ州選手権セリエA-3(3部)に優勝して昇格を決めた[13]。
所属クラブ
指導歴
※ 特筆なき限り、役職は監督
タイトル
クラブ
- サンパウロ
- ボタフォゴ-PB
- ジョインヴィレEC
指導者時代
- サンパウロ
- リオ・ブランコ-MG
注釈
- ^ ガンバ大阪によるプレスリリースなどでは水原三星となっているが、セホーンによれば「2000年末から2003年末まで韓国で働いたのは事実だが、サンパウロが現地に開設した少年チームで指導していたんだ。(Kリーグの)水原三星とは関係ない」[9]
出典
参考文献
関連項目
外部リンク