シャーンドル・ヴェーグ (Sándor Végh , 1912年 5月17日 - 1997年 1月6日 )は、ハンガリー 生まれのフランス のヴァイオリニスト [ 1] [ 2] 。1960年代終わり頃からは指揮者 としての活動も始めている[ 3] 。
生涯・来歴
1912年5月17日、オーストリア・ハンガリー帝国 第2の都市コロジュヴァール (現在のルーマニア ・クルージュ=ナポカ )で出生[ 2] [ 3] 。6歳からピアノを学び始めた[ 4] 。1924年、リスト音楽院 (ブダペスト )に入学し、ヴァイオリンをイェネー・フバイ に、作曲をコダーイ・ゾルターン に学んだ。1927年、リヒャルト・シュトラウス の曲を作曲者自身の指揮でソリストとして演奏してデビューした。同年、同音楽院からフバイ賞とレメーニ賞を獲得し、1930年に同音楽院を卒業。その後ソリストとして活動すると同時に、ハンガリー三重奏団を結成した[ 3] 。
1935年、ハンガリー四重奏団 を結成[ 5] 。当初ヴェーグが第1ヴァイオリンを務めていたが[ 2] 、2年後にバルトーク と親交のあったセーケイ・ゾルターン (ゾルターン・セーケイ)が同四重奏団に加入すると、セーケイが第1ヴァイオリンを務め、ヴェーグは第2ヴァイオリンにまわった。そしてヴェーグが在籍していた1936年、ハンガリー四重奏団によるバルトーク 『弦楽四重奏曲第5番 』の初演が行われた。
1940年、ハンガリーに残るべく、オランダに活動拠点を移すこととなったハンガリー四重奏団を脱退。リスト音楽院の教授に就任すると共に、自身の名を冠したヴェーグ四重奏団 を結成して活動を開始[ 5] 。
1946年、ヴェーグ四重奏団がジュネーヴ国際音楽コンクール で第1位を獲得。だが暫くしてヴェーク自身と共に亡命のためハンガリーを去る[ 3] 。1970年代半ばまでヴェーグ四重奏団はコンサート活動を続け、ヴェーグ自身もソリストとして活動していた。ヴェーグは、1953年にフランス国籍を取得[ 3] 。
1952年、ヴェーグは、チェロ奏者パブロ・カザルス から、カザルスがスイス のツェルマット で開講していたサマークラス(1953年 - 1962年)に招待され、以後、カザルスが主催していたプラド音楽祭 (1953年 - 1969年)に毎年参加するようになった[ 2] [ 3] [ 4] 。また、バーゼル音楽院 (1953年 - 1969年)、フライブルク音楽院(1954年 - 1962年)、デュッセルドルフ音楽院(1962年 - 1969年)、ザルツブルク・モーツァルテウム音楽院 (1971年 - 1997年)において教鞭を執った[ 4] 。
1962年、ヴェーグはチェルヴォ国際室内楽音楽祭 を創設[ 注 1] 、また自らシャーンドル・ヴェーグ室内管弦楽団を立ち上げ、1968年から1971年までの音楽祭の期間中タクトを執った。更に1974年から1977年までは、マールボロ祝祭管弦楽団も指揮していた[ 4] 。
1979年、モーツァルテウム・カメラータ・アカデミカ の指揮者となる。同楽団を指揮してのモーツァルト のディヴェルティメント及びセレナーデの録音で1989年のフランス・ディスク大賞 を受賞した[ 4] 。
ヴェーグはまた、レジオンドヌール勲章 のシュバリエ章(1986年)、イギリスのウォーリック大学 とエクセター大学 の名誉職(1987年)、ザルツブルク・ゴールドメダル(1987年)、大英帝国勲章 のコマンダー章(CBE、1988年)をも授与されている[ 4] 。
1997年1月6日、オーストリア ・ザルツブルク にほど近い、ドイツ ・バイエルン州 のフライラッシンク の病院で没した[ 2] [ 1] [ 4] 。
主な門下生(個人・団体)
脚注
注釈
^ 当該音楽祭創設年に関しては、『AllMusic』に於けるヴェーグのプロフィール掲載ページ並びに当該音楽祭開催地であるイタリア=チェルヴォ村 (Comune di Cervo )Webサイト内に設けられている音楽祭創設者ヴェーグの紹介ページに於いては「1962年」と記載されている一方[ 4] [ 6] 、当該音楽祭の公式サイト並びにチェルヴォ村Webサイト内当該音楽祭紹介ページでは「1964年」と記載されている[ 7] [ 8]
出典