ザ・リバティーンズ (The Libertines )は、イギリス のロックバンド 。ロンドン 出身。
概要
ガレージロック・リバイバル ・ムーブメントにおけるバンドの1つ。バンドの中心人物は、作詞・作曲を共同で行っていたカール・バラー とピート・ドハーティ 。当初は目立った成功を収められずにいたが、2000年代前半からしだいに注目を集め、ついにはイギリスチャートでアルバム1位、シングル2位を獲得するバンドとなった。2004年12月にリリースされた2ndアルバム『リバティーンズ革命 』は、NME の年間ベストアルバムで2位に選ばれた。なお、彼らの2枚のアルバムプロデューサーは、イギリスのパンク・ロック バンド、ザ・クラッシュ のミック・ジョーンズ が担当した。
成功の一方で、バンド内部ではドハーティのドラッグ中毒 (クラック・コカイン とヘロイン )を原因とするトラブルが絶えず、結果的にこれが2004年の解散につながった。その後、リバティーンズのメンバーはそれぞれの新しいバンド(ベイビーシャンブルズ およびダーティ・プリティ・シングス )で音楽活動を継続した。
2010年 8月 には一時的に再結成を果たし[ 7] 、レディング・フェスティバル を含むいくつかのライヴを行った。2011年 のインタビューでカール・バラーは将来的な活動を否定した[ 8] ものの、その後も断続的にライブを継続。2014年 はブリティッシュ・サマータイム・フェスティヴァルatハイドパークでヘッドライナーを務め、ヘッドライン・オブ・ザ・イヤーを受賞した[ 9] 。
2014年12月、新たにVirgin/EMI Recordsと契約を交わしたと発表。ニュー・アルバムのリリースが決まった。2015年6月26日、シークレットゲストとしてグラストンベリーにて新曲を含む19曲を演奏した。2015年9月、3rdアルバムを発表。
メンバー
現在のメンバー
旧メンバー
スティーブ・バーロウ (Steve Bedlow) ボーカル。
ジョニー・ボーレル (Johnny Borrell) ベース。
ポール・デュフール (Paul Dufour) ドラムス。
アンソニー・ロッソマンド (Anthony Rossomando) ギター。
タイムライン
来歴
結成〜ラフ・トレードとの契約
ザ・リバティーンズの設立メンバーはカール・バラー とピート・ドハーティ 。2人が出会ったのは、バラーが大学で演劇を学び、ドハーティの姉エイミー・ジョーとロンドンのリッチモンド でフラットをシェアしていた時。ドハーティは別の大学で英文学を学んでいた。この時ドハーティは17歳であった[ 10] 。2人は互いの才能と音楽への情熱に気づき、大学を辞め北部ロンドンのカムデン・ロードで共同生活を送るようになる。[ 11] 当初ドハーティはバラーとザ・スミス のモリッシー /マー のような歌手とギタリストの関係になろうとしていた[ 10] 。2人が住んでいた家は、家賃は週60ポンド (約1万2000円 )で壊れた裏窓から入り込むしかなく、ドハーティとバラーはシングルのマットレスで一緒に寝ていた[ 12] 。
隣人のスティーブ・バーロウ (Steve Bedlow〈一般的には、Scarborough Steveと呼ばれる〉) とバンドを結成した。バンド名をはじめ「ザ・ストランド (The Strand)」とし、のちに「ザ・リバティーンズ」とした。由来は、マルキ・ド・サド の『ラスト・オブ・ザ・リバティーンズ (Lust of the Libertines)』から(「ジ・アルビオンズ〈The Albions〉」も検討されたが取り下げされた)。ジョン・ハッサール とジョニー・ボーレル と出会い練習を行った。ボーレルが練習に現れなくなり、ハッサールがベーシストとしてバンドに加わった(ボーレルは、のちにレイザーライト のメンバーとなった)。この時点では、まだ固定的なドラマーがいなかった。バンドはギグを行うようになり、多くはドハーティとバラーのフラットが開催地となった。
3曲レコーディングするために、プロデューサーにセックス・ピストルズ の作品を手掛けたことのあるグウィン・マシアス(Gwyn Mathias)を迎え、オデッサ・スタジオへ入った。しかし、バンドは自分たちが用意してきたドラマーに落胆し、 マシアスはポール・デュフール (Paul Dufour、別名:ミスター・ラズコックス〈Mr. Razzcocks〉) をヘルプとしてバンドに入れた。デュフールは、50ポンドでレコーディングに加わることを同意した。彼は54歳であり、他のメンバーよりかなり年上だった。年齢差は大きかったものの、デュフールはバンドに加わったことで十分感動していた。バンドは、より多くのレコーディングをし始め、さらに遠くの開催地でギグをするようになった。
2000年5月、バンドはワーナー・ミュージック・グループ の弁護士であったペルシャ人 女性のバニー (Banny Poostchi) と出会った。バニーはバンドの潜在的な才能を認識して、マネージャーを引き受けた。『Legs 11』のレコーディングを行う。しかし、2000年12月になっても契約が決まらず、デュフール、ハッサール、バニーがバンドを離れていく。[ 13] バニーは同じようなスタイルで成功しているザ・ストロークス を見て、ラフ・トレード・レコード と6か月以内に契約を交わす計画を立てる。この期間にバンドは多くの曲を書き上げ、結果的に1stアルバムに収録されることになった。バニーはポール・デュフールの年齢が高すぎると考え、ゲイリー・パウエル をドラマーとして加入させた。2001年12月、ラフ・トレードと契約を交わした。[ 14]
バンドはベーシストが必要となり、ジョン・ハッサールが再度加入した。しかし、バンドの中心はドハーティとバラーであるため、ハッサールはバックグラウンドに留まることを通告される。ドハーティとバラーは、ティーズデール通り112aにあったフラットを一緒に賃借し、アルビオン・ルームズ (The Albion Rooms) と名付けた(彼らのゲリラ・ギグの多くの開催地になった)。
『リバティーンズ宣言』
ラインナップが固まったバンドは、より多くのギグをし始め、ザ・ストロークス とザ・ヴァインズ 、スーパーグラス のオープニングアクト を務めた[ 15] 。ミュージックプレス中へ名前が広がり、NMEは特にリバティーンズへの関心を持った。
2002年、両A面シングル 「ホワット・ア・ウェイスター/アイ・ゲット・ アロング 」をリリースしてデビューを果たす。プロデューサーは元スウェード のバーナード・バトラー 。シングル発売日と同日、エリザベス2世 女王即位50周年記念の祝典が開催されており、バッキンガム宮殿 内ではロック・スター参加のコンサートが行なわれ、大々的にテレビ中継されていた。彼等はこれに対抗し、宮殿の道挟んだ向かい側でギグを決行。さらにこのシングルをヴァージン・メガストア で万引きする(その模様は後にシングルとなる「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン」のPV中に挿入されている)。こうしてバンドは反体制派のヒーローとしての立場を確立した。シングルは放送禁止処分となったが、全英37位を記録。[ 16]
元ザ・クラッシュ のミック・ジョーンズ をプロデューサーに迎え、1stアルバムのレコーディングを行った[ 17] 。レコーディング中もバンドは可能な限り多くのギグを行なっていた(セックス・ピストルズ 、モリッシー のオープニングアクト を含め、2002年だけで100回以上)。
2002年8月、サマーソニック に出演し、初めて日本でライブを行った。ライブはたったの20分程度だったが、ベストアクトの1つに挙げられた。ドハーティは、「日本にいた時はアルカディア にいるようだった」とコメント[ 14] 。
セカンドシングル「アップ・ザ・ブラケット 」を9月30日にリリースし、全英29位を記録。続いて10月21日に、1stアルバム『リバティーンズ宣言 』をリリース。全英で最高35位どまりだったが世界中の音楽誌から高い評価を得た。NMEアワーズで「ベスト・ニュー・バンド」に選ばれた。バラーがアルビオン・ルームズから独立していく[ 18] 。
2003年4月、日本ツアーを敢行した。約2週間の滞在期間の中で、10回のギグを行うという過密なスケジュールのせいもあってか、札幌公演ではドハーティが2曲目で機材を全て破壊する事件を起こす[ 16] 。ギター1本とツイン・ヴォーカルで札幌の公演を終えた[ 19] 。
メンバー間の関係悪化
『リバティーンズ宣言』のレコーディングとリリース後のツアー中、ドハーティのドラッグ使用量が大幅に増加していき、他のメンバーとの関係が悪くなっていく。バンドは気難しくなり、パフォーマンスの中にも緊張状態が見て取れるようになった。
2003年5月、ニューヨーク で『Babyshambles Sessions』のレコーディングを行う。 バンドへの決意の印として、ドハーティとバラーは腕にタトゥー "Libertine" を入れた。しかし、バラーはドハーティのドラッグとその関係者に嫌気がさし、セッションを途中でやめ、ドハーティはひとりでレコーディングを終えた。セッションはヘレン・スーと呼ばれるファンに与えられ、インターネットで無料公開された(ドハーティが命令したとされている)。
イギリスに戻ると2人の関係はさらに悪くなり、ドハーティはひとりでゲリラ・ギグを行うようになった。バーナード・バトラー をプロデューサーに迎えて「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン 」のレコーディングを行うが、ドハーティとバトラーの関係がうまくいかず、ドハーティはめったにレコーディングに現れなかった。
バラーの誕生日が近づいてきた時、ドハーティはバラーとの間の緊張を和らげようと、誕生日を祝う特別なギグを企画した。しかし、バラーはすでに他の友人が開いてくれたパーティへ出席しており、ギグに行くことができなかった。ギグでは、ひとり演奏するドハーティが残された。
バラーがシークレット・ギグに現れなかった後、ドハーティはバンドのヨーロッパ・ツアーへの出発時間に姿を現さなかった[ 20] 。ドハーティはこの時、裏切られたと感じ、バラーと接触するのを拒んでいた。バンドはニックという代わりのギタリストを迎え、ドハーティ抜きでツアーを敢行した。ドイツのライブでは、ザ・クーパー・テンプル・クロース のディズ・ハモンドがボーカルとしてバンドをサポートした[ 16] 。途中ドハーティがパリのギグから合流しようとするが、ドラッグ問題を理由にバンドへ戻ることを拒否される[ 21] 。その間、ドハーティはベイビーシャンブルズ として活動を続けた。7月、バンドはフジ・ロック・フェスティバル 出演のために日本へ向かった。バンドが日本に滞在中、怒り取り乱したドハーティがバラーのフラットに機材等を盗みに侵入し、逮捕されるという事件を起こした[ 22] [ 23] 。
混乱の中、シングル「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン 」がリリースされる。ドハーティ逮捕の話題もあいまって全英11位にまで登りつめた。ドハーティの代役にアンソニー・ロッソマンド を迎えてレディング・フェスティバル に出演。9月、ドハーティが住居侵入罪で、2か月の実刑に処せられる。ドハーティの保証人にバラーがならなかったことに、ファンが非難を浴びせた。
『リバティーンズ革命』〜活動停止
ドハーティ釈放の日、バラーが門の前まで迎えに行き、2人は熱い抱擁を交わした。この晩、来ないと思われていたハッサールとパウエルも加わり、チャタム のクラブ「タップ・アンド・ティン」でドハーティ復活記念のギグを行った[ 24] 。NMEギグ・オブ・ザ・イヤーに選ばれる[ 18] 。2003年12月の中頃、ロンドン・フォーラムで3日連続ギグを行い、全てソールド・アウトとなった。最終日の夜には、大勢のファンがステージへ上がってきた[ 25] [ 26] 。続けて2004年3月、UKツアーを行う。
バニーに代わり、クリエイション・レコーズ 創立者のアラン・マッギー がマネージャーとなった(のちにアラン・マッギーは、ダーティ・プリティ・シングス のマネージャーになった)。2ndアルバム制作のためにバーナード・バトラー とスタジオ入りするが、ドハーティとバトラーの関係がうまくいかず、すぐにやめてしまう。前年に公式リリースされたのは「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン 」だけであったにもかかわらず、NMEアワーズでベスト・ブリティッシュ・バンドに選ばれた。授賞式で「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン」を披露。また、式でドハーティとバラーは、ジークフリート・サスーン の詩「Suicide in the Trenches 」を共に暗唱した[ 27] 。
ミック・ジョーンズ がプロデューサーに復帰し、スタジオ入りする。しかし、ドハーティのドラッグ癖が戻り、バラーとの関係が張り詰めたものになる。レコーディング初日に2人は大喧嘩をし、2人を喧嘩から引き離すためにセキュリティーが雇われた[ 28] 。ドハーティはリバティーンズの傍ら、友人のウルフマンとコラボレートし、シングル「フォー・ラヴァーズ」をリリース。全英7位を記録。バラーは、ウルフマンとドハーティのドラッグ癖を快く思わなかったが、B面にギターで参加した。アルバムのレコーディングを終えるとドハーティはミキシングとアフレコを他の者に任せて、スタジオから去ってしまう。ドハーティがまともな状態ではなく、レコーディングできたのはわずか10日間であった[ 29] 。2004年5月14日、ドハーティはドラッグ中毒を絶つため、プライオリーへ入る[ 30] [ 31] 。しかし、すぐにドハーティはプライオリーから抜け出し[ 32] 、1度戻るが、1週間後の6月7日に再び抜け出した[ 33] 。
この間、バラーはウエスト・エンド で開く予定のクラブナイト「ダーティ・プリティ・シングス」の準備をしていた[ 34] 。ドハーティは、プライオリーを2回目に抜け出した日に、クラブナイトのオープニング・パーティーへ顔を出した。バンドメンバーに薬物治療のためタイ のワット・タムクラボーク へリハビリに行く決意を語った[ 35] 。この晩、楽器を周りから借りながら短いセットのギグを行った[ 36] [ 37] 。そして、これがリバティーンズ全員揃っての最後のパフォーマンスとなった。
リハビリは再び失敗に終わり、ドハーティは寺院を3日間で去り、ドラッグを求めてバンコク へ向かった[ 38] 。契約上、これ以上ギグをキャンセルするわけにはいかないバンドは、再びロッソマンドを代役に迎え活動を再開。6月17日、ドハーティがイングランドへ帰国したその日に、刃物の不法所持で逮捕される[ 39] 。9月1日、ドハーティはロンドンの裁判所に出廷し、無実を主張。4か月の実刑になる可能性があったが、執行猶予12か月になり実刑を免れた[ 40] 。バラーは、ドハーティをすぐにはバンドへ戻さなかったが、「ドハーティがドラッグ問題を解決すれば、すぐにでもバンドへの復帰を歓迎する」という声明文を出す[ 41] 。しかし、ドハーティは新しく始めたベイビーシャンブルズ としてツアーを敢行、成功し、バンドとの和解の可能性を遠ざけた[ 42] 。
2004年7月、フジ・ロック・フェスティバル 出演のために、薬物問題が解決しないドハーティ抜きで日本へ向かった。8月、サマーソニック に飛び入り出演。コメディ・ステージでのライブであったが多くの観客を集めた。
2ndアルバムからの1stシングル「キャント・スタンド・ミー・ナウ 」をリリースし、全英2位を記録。末に満を持して2ndアルバム『リバティーンズ革命 』をリリースし、全英1位を記録。11月、ラストシングル「ホワット・ビケイム・オブ・ザ・ライクリー・ラッズ 」をリリースし、全英9位を記録。バンドは最後の日本公演を行い、全国7か所を周った。
12月17日、ドハーティ不在のままパリで最後のギグを行った。無期限活動停止(事実上の解散)を宣言し、活動にピリオドを打つ[ 43] 。
2005年2月、NMEアワーズで2年連続でベスト・ブリティッシュ・バンドに選ばれた。授賞式でバラーは「ピートに会えなかったのは残念。キスして仲直りするはずだったのに」と、コメント。
その後、ドハーティはベイビーシャンブルズ 、バラーとパウエルはダーティ・プリティ・シングス 、ハッサールはイエティ でそれぞれ活動している。
再結成
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(2015年7月 )
ドハーティとバラーの2人は、リバティーンズ解散後、数か月間連絡を絶っていた。しかし、2005年4月18日午後11時30分頃、2人は北部ロンドン・ハイゲイトのザ・ブーガールー・バーで再会した。この再会は友好的なものと言われている。2人が再会したのは、ドハーティがタイへ行く直前に会って以来、約10か月ぶりであった。2人は最初神経質になっていたが、抱擁で互いを迎え合い、ソファーに座って会話をした。[ 44] [ 45]
次の再会は、2006年7月18日、カムデンのダブリン・キャッスル・パブで行われた[ 46] [ 47] 。
NMEアワーズ2007で、ドハーティとバラーは再会し、バーへ行く前にテーブルでしばらく話をした[ 48] 。2人が会うのはダブリン・キャッスルの時以来だったが、本当にうまくやっている様子だったとNMEは報告している[ 49] 。
2007年4月12日、ハックニー・エンパイア劇場でドハーティのソロ・パフォーマンスにバラーが参加。その場でドハーティとバラーによるリユニオンが行われ、「タイム・フォー・ヒーローズ」など、リバティーンズのトラックが合計13曲演奏された。コンサートが終わりバックステージの窓から即興ギグも行われ、外で待ち構えていたファンを熱狂させた[ 50] 。
しかし、ドハーティ、バラー共に共演は1回限りだと発言している。バラーはダーティ・プリティ・シングスのニューアルバムに専念しているとインタビューに答えた。一方、ドハーティはソロ・アコースティック・アルバムに加え、ニューアルバム制作の為にスタジオへ入ることを明らかにした。[ 51] [ 52]
2007年6月、ビートルズ の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド 』40周年記念カヴァー・アルバムのために、ドハーティとバラーが「ア・デイ・イン・ザ・ライフ 」をレコーディングした。2人が一緒にレコーディングするのは、2004年4月以来であった。[ 53] [ 54]
グラストンベリー・フェスティバル の日曜日のドハーティのソロ・アコースティック・ショーにバラーが参加するのではないかという噂が流れた。ベイビーシャンブルズ、ダーティ・プリティ・シングス共に、土曜日のステージへは出演したが、日曜日の共演は行われなかった。しかし、ドハーティはリバティーンズのトラックでアコースティック・ショーをスタートさせるなど、思いがけないセットを披露した。[ 55]
ドハーティとバラーが、ロンドンのドンマー・ウエアハウスのためにロックンロール・ミュージカル をコラボレーションする予定だと報道された[ 56] 。しかし、のちにバラーは、ドハーティと新曲を制作しているという噂を否定した[ 57] 。
2008年7月のインタビューで、バラーはリバティーンズについて「やりかけの仕事」と話した。また、ドハーティと一緒にいた時の純粋さを忘れることができないとも話した。リバティーンズ再結成の質問には「たぶん」と答えている。[ 58] [ 59]
2008年9月17日、ドハーティはカムデンのプリンス・オブ・ウェールズ・パブでプライベート・ギグを行っていた。終盤に差し掛かったところ、かつてのバンドメイトのギグに参加するために、バラーがセキュリティに導かれてステージへ上がった。このリユニオンは突発的に行われたものと思われる。「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン」や「タイム・フォー・ヒーローズ」、オアシス の「ドント・ルック・バック・イン・アンガー 」などを演奏した。2人が公で一緒に演奏するのは2007年4月のリユニオン以来であった。また、バラーは新しくタトゥー「let's put our futures behind us」を前腕に入れたことを話した。[ 60] [ 61]
2008年10月1日、カール・バラー率いるダーティ・プリティ・シングス が2週間のUKツアーの後、解散することが発表された。声明によると、バンドは新しいことを始める時期がきたということ。しかし、新しいこととは、リバティーンズのことではないと付け加えている。[ 62] [ 63]
2009年2月、ドハーティはレディング・フェスティバル から数億円で再結成のオファーを受けていたことを明かした。しかしながら、バラーが乗り気でなかったため断っていた。[ 64] バラーはインタビューに「バンドを解散し自由になれたばかりで、再結成のことで頭をいっぱいにするのは嫌だ。今はダメだ。」と答えている[ 65] 。
2009年2月、NMEアワーズでのインタビューで、バラーは2人はまだリバティーンズのままであると答えている。ドハーティは、2010年にはバラーを説得できるとの予想を話した。また、バラーはソロ・アルバムをリリースする可能性を仄めかした。[ 66] [ 67]
2009年5月15日、ロンドンのリズム・ファクトリーで、バラー、ドハーティ、パウエルの3人がライブを行った。これは生前バンドが世話になっていたジョニー・セダッシーの追悼イベントであった。ハッサールは参加せず、ベイビーシャンブルズのドリュー・マコーネルが代役を務めた。演奏された曲は「ホワット・ア・ウェイスター」「アップ・ザ・ブラケット」「キャント・スタンド・ミー・ナウ」など。[ 68] [ 69]
音楽性
ドハーティとバラーは異なった音楽的影響を受けてきた。ドハーティは主にザ・ジャム 、ザ・スミス 、チャス・アンド・デイヴ 、ジ・オンリーワンズから、バラーはヴェルヴェット・アンダーグラウンド [ 70] 、ジャンゴ・ラインハルト 、ザ・クラッシュ 、ドアーズ から影響を受けている。本では、ドハーティはウィリアム・ブレイク 、エミリー・ディキンソン 、トーマス・チャタートン などを好み、バラーはサキ やエドワード時代 の機知に富んだものを好んだ。
レコーディングは、かなりローファイ に行われた。ミキシング とアフレコ は最小限に抑えられ、最終的にレコーディングされた音は生に近く、洗練されていないものとなった。リバティーンズの登場により、それまでアメリカ一辺倒だったUKチャートへ、多くのイギリス新人バンドが現れるようになった[ 28] 。ザ・ビュー [ 71] 、ザ・ピジョン・ディテクティヴズ [ 72] 、ザ・メトロス [ 73] など、後進のバンドへ影響を与えている。
来日公演
2002年
8/17,8/18 大阪/東京 SUMMER SONIC '02
2003年
"THE LIBERTINES JAPAN TOUR 2003"
4/8 名古屋 CLUB QUEATTRO
4/9 心斎橋 CLUB QUATTRO
4/10 福岡 DRUM LOGOS
4/11 京都 CLUB METRO
4/13 新宿 LIQUID ROOM
4/14 新宿 LIQUID ROOM
4/15 原宿アストロホール /MO'SOME TONEBENDER
4/16 仙台 CLUB JUNK BOX
4/17 札幌 PENNY LANE 24
7/25 FUJI ROCK FESTIVAL'03(ピートは不参加)
2004年(全公演ピートは不参加)
8/1 FUJI ROCK FESTIVAL'04
8/3 SHIBUYA-AX
“THE LIBERTINES JAPAN TOUR 2004”
11/24 広島 CLUB QUATTRO
11/25 福岡 Zepp Fukuoka
11/27 名古屋 CLUB DIAMOND HALL
11/29 東京 Zepp Tokyo
12/1 川崎 CLUB CITTA'
12/2 大阪 なんばHatch
12/3 京都 CLUB METRO
ディスコグラフィ
アルバム
シングル
脚注
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^ 「ザ・リバティーンズ、レディングから再結成の依頼を受ける 」 BARKS、2009年2月11日。
^ 「カール『リバティーンズの再結成より俳優への道』 」 BARKS、2009年2月13日。
^ 「ピート・ドハーティ、『リバティーンズ再結成は2010年』?! 」 RO69、2009年3月2日。
^ 「ピート・ドハーティ『リバティーンズを再結成するようカールを説得する』 」 BARKS、2009年2月27日。
^ 「リバティーンズ、再結成(のようなもの) 」 BARKS、2009年5月20日。
^ 「ザ・リバティーンズ再結成? カール・バラー、今後のライブ予定を語る 」 RO69、2009年5月20日。
^ 「リバティーンズ節健在! 抜群のメロディと切なさの2nd登場! 」 BARKS、2004年8月31日。
^ 「HARD TO EXPLAIN 」
^ 「マンスリープッシュ 」 VIBE、2007年5月18日。
^ 「インタビュー 」 VIBE、2008年8月26日。
外部リンク