グラン・ギニョール(仏: Grand Guignol)は、フランス、パリに19世紀末から20世紀半ばまで存在した大衆芝居・見世物小屋のグラン・ギニョール劇場(Le Théâtre du Grand-Guignol)のこと。またそこから転じて、同座や類似の劇場で演じられた「荒唐無稽な」、「血なまぐさい」、あるいは「こけおどしめいた」芝居のことをいう。フランス語では"grand-guignolesque"(「グラン・ギニョール的な」)という形容詞は上記のような意味合いで今日でもしばしば用いられる。
同座のために1901年から1926年にかけてグラン・ギニョール劇場の主要作家として活躍し、「恐怖のプリンス」(Prince de la Terreur)の異名をとった劇作家アンドレ・ド・ロルド(フランス語版)(1869-1942)の時代が最盛期であった。彼は『老婦人』『究極の責め苦』『精神病院の犯罪』『蝋人形』など、グラン・ギニョールのために100本以上の演劇を書いた。彼は実験心理学者アルフレッド・ビネーの協力を得て、彼が固執したテーマの一つである「狂気」についての演劇を数多く生み出した[2]。
ド・ロルドとともに劇場を支えた存在が、花形女優のポーラ・マクサ(フランス語版)(1898-1970)であった。1917年から1933年にかけて、彼女はグラン・ギニョール劇場において最も頻繁に犠牲者の役を演じ、舞台上で殺害された回数は10,000回以上[3]とも30,000回以上[4]とも言われており、舞台上で拷問された回数は3,000回と言われている[3]。2018年には彼女の女優人生をモデルにした映画『世界で一番殺された女』 La femme la plus assassinée du monde(2018)が製作され、フランスの人気女優アンナ・ムグラリスがマクサの役を演じた[4]。
1951年にはマックス・モーレーの息子たちであるドゥニとマルセルの兄弟が経営に乗り出し、劇場の人気回復のためにフレデリック・ダール(フランス語版)やボワロー=ナルスジャックといった当時の人気推理作家に書き下ろしの台本を依頼した。とくにボワロー=ナルスジャックの書き下ろしによる二幕の恐怖劇"Meurtre au ralenti"(1956)は評判となってテレビでも放映されるなど、グラン・ギニョールの演目が話題となることもあったが、劇場の人気低迷に決定的な歯止めをかけることはできなかった。最終的には1962年、映画などとの競争に敗れる形で閉鎖された。最後の芸術監督となったシャルル・ノノンはグラン・ギニョール劇場の戦後の人気急落の原因として、ナチスによるホロコーストが人々に与えた衝撃が、作り物の恐怖演劇への興味を失わせた結果であろうと分析。劇場が閉鎖された際のインタビューにおいてノノンは「戦前、グラン・ギニョール劇場の舞台上の出来事は現実にはありえないことだと誰もが信じていた。だが我々は現在、劇場で上演される陰惨な行為が…あるいはそれよりもさらに残虐な行為が…現実に起こりうると知ってしまった」と語った[5]。
最終期の上演となったのは、一幕の喜劇"Deux Femmes sur les bras"(ジャック・マルイユ作)、二幕の恐怖劇『顔のない眼』Les yeux sans visage(ジャン・ルドン原作)、および二幕のサスペンス劇劇"Parodie de la mort"(ベルギー出身のミステリ作家、ペーター・ランダ(フランス語版)原作。原作となった同名の小説は現在フランスで非常に高く評価されている[6])であった[7]。『顔のない眼』はジョルジュ・フランジュ監督の映画『顔のない眼』の原作を劇化した二幕の演劇だが、原作は映画のような幽玄妖美なものではなく、残虐な殺人事件を警察が捜査していると異常な犯人が浮かび上がるという通俗的なノワール小説であり、グラン・ギニョール劇場の上演も原作に近い脚色であった。